毎度タイトルをつけるのを忘れる、忘れなかったことがない

たましいの更新です

 

闘魂

 

特に意味はないのですが、

 

改行改行

 

好きだった御茶ノ水のジャズ喫茶が閉店、閉店と言うか移転?

移転して中古のレコ屋さんになるらしい

そうですか~

 

音デッカイのが良いな~と思っていましたけど、音デッカイとこに居たいときもあります

 

家の中は結構暑い、今でも

 

 

昨日は夜に映画を見ていて、リチャード・リンクレイターの「ウェイキング・ライフ」

リンクレイターの作品、映画は、は兄に連れられて行った新文芸坐のオールナイトの特集で、見て以来、そこそこ見ていて

その時には、「6才のボクが、大人になるまで。」「エブリバディ・ウォンツ・サム!!世界はボクらの手の中に」「30年後の同窓会」を見ていて、18歳の10月だったらしい。調べた。

たぶん三つ目あたりの中盤で寝たということを覚えてはいて、その映画自体を見たことは今の今まで覚えていなかった。会話が中心で、眠い時にはそこそこ眠くなる。

それから、好きな映画を聞かれたら2個目の「エブリバディ―」を答えていて、それがなんで好きなのかって聞かれてもまぁそんなに答えれるような感じではなかったような。いや、まぁ大概がそうだけど、好きな理由が言えることは大して重要ではなくって、特に映画とか小説とかそもそも見てなにかが残るかどうか、とかそういうことは野暮っぽく感じてしまいがちなところもあります、あんまり上手に説明できていませんけども、、見ている時間になにが起きているかはその人とその時間にしかないものなのでないかとおもっている節があるので、説明できなくても別によいという開き直りがある。説明できるに越したことはない。

それで、それから新宿で兄と一緒に住むことになるんだけど、その翌年の春から

いや、あんまり関係ないわ、いや、映画を見ることのきっかけあたりにそれがあるような気がしなくもない。オールナイトで映画、みませんしねぇ

見た後は池袋駅の近くのマックで朝マックをした記憶、お互いぐったりしていたけど、その光景はそこそこ覚えている。

 

それから「スクール・オブ・ロック」とか、「ビフォア・サンライズ」とか見ました、けど後者は今年見ましたけど、あんまりよくわかりませんでしたが、それは僕がちゃんと見れていない、映画に没頭できなかったからなのかもしれません

 

ほんで、映画の系譜でいくと「エブリバディ―」が大学生活を、「バッド・チューニング」が高校生活を描いていて、どっちも似たようなもん、というとあれだけど、要約したらば、ジョックがドンチャカパーティをする、というそれだけなんだけど、その二つはとttってもよくて、兄がそのさらに前日譚?、詳しくはしらないけど、同じ系譜上にある、らしい「スラッカー」をもう一回見たいって言ってたけど、見たいねそうなるとね

「バッド・チューニング」は下高井戸シネマでなぜか今年リバイバルしていて、それもまた兄と見に行ったが、お互いに腰が痛いという話をした、けど、

映画が本当にとってもよくて、そのあと、サントラをしばらく聞いていて、その年代の映画自体はもっと後だが、70年代?頃の洋楽を聞くきっかけになりました。実家の車でそれらを聞くということをして、両親がどういう音楽を聴いていたのかって話にも発展した。そもそも私は両親についてあまりよく知らない。知らないままここまで来ていて、もうたぶん自分で聞かないと話をすることってほとんどないままみんながみんな忘れていく。

 

なにが、良いのかってあんまりはっきりとは言えないっていうか、物語らしい物語がほとんどないから別に喋ることがないし、そこで言われてたことのなにかが残っていて、それが、と言うこともできないくらいに覚えていない、覚えるもんでもないし、

それでも、かなりよくって、生涯のベストを選べって言われたら入るだろうなぁと思う

 

それで昨晩は、家で一人で、「ウェイキング・ライフ」を見て、それもまぁ、まぁというか全く物語っぽいもの?ストーリーはほぼないし、そこで喋ってる内容もほとんどごちゃごちゃしていて、なにがなんやら、って言えてしまうんだけど、それでもなんか、なんだ?すごいものを見たぞ!という気持ちはそこそこあって、ずーーーっとその映画のことを考えている。

夢がテーマであって、人の夢、について興味がないと思っていた、のはおませちゃんブラザーズの本田がかつてそう言っていたことに引っ張られていたんだけど、そのずーっと後に読んだ、山下澄人『俺に聞くの?』で夢について書いてあって、そうかーって簡単に手のひらを反して以来、とっても興味がある、あります、すみません、前者の時期に夢の話をしてくれた人、興味がなくて、その時には、すみません

映画でなにがなんやら、というか喋っている内容がどう、ということ、はそれもう別の分野、まさしく哲学の話になってしまいそうで、気が引ける、んだけど、別にまぁそれもそんなにそれ自体が難解って訳ではなくて、それをむしろ夢の中でやる、つまりは他者がそこにはいないはず、の場面で映像として生まれている、ということ、がむしろ主題なんでは、と思う、主人公がそれに思い悩む場面もある

 

それで、ちょうど、ちょうど、と思うのは、当然僕なのですが、

本を並行して何冊か読んでいて、みながわくんが買ってくれた柴崎友香『百年と一日』はそんなに読み進められてないけど、素晴らしい予感だけはとてもする、あとは堀静香『がっこうはじごく』もちょこっとしか読んでないけど、色川武大『うらおもて人生録』はとても、よいというか、読んでよかったと思い始めている

忘れないうちに、無駄なことはある、という発見があった

人生に無駄なことなんてないということを聞くたびに考え方が逆で、経験したこと、からしか思考が出発しない以上は、無駄なことがない、という言い方はできないのでは?と毎度言い続けていて、それはつまり、人生という枠の中で拾い上げてきた経験を目の前にある事象に対するものとしてや過去、として参照する、という構造にある以上はどうしようもなく、それ、少なくともその経験自体についてはが無駄であるとは言い難いのでは?ということを言っていたんだけど

それを反転させて、人生は経験がすべて、であるという風には言えるけど、言えない、正確に言うなら体験をすることがすべて、とは言えなくて、経験がすべてであるというのはその通りであると思う。ただし、その中には無駄も存在する。

小説家、の誰か、角田光代?か誰かが、経験としての読書は実体験よりも優れている、というような旨のことを新聞か何かで話していた気がする。そこそこ勇気づけられたが、それはつまり、本を読むことをどこかで二次的なもの、体験よりは劣るものとして自分の中で位置づけていたからだと思う、別にそれを著名な作家が言っていたから正しいと思ったから、なのではなくて、そんな風に言う人がいることそれ自体に勇気づけられたという感じですが、

で、無駄は確かにある、と『うらおもて―』を読んでそう思ってしまっている。短い人生の中で体験できることには確かに限界があって、そうだとするなら、全てを私が体験・経験できるのではない、というのは自明だったが、改めて無駄なことはあって、それを避けながら自分の、人生を生きるしかないのでは?と思えてきた

無駄である、という判断を下すという経験と言えるのであればそれもまた無駄ではない、とも思えるが。

少なくとも、経験がすべてである、のはそうだとして、その中には避けられる、避けてもよい無駄な経験が含まれている、ということなのでは?

 

それでさらに別の本野矢茂樹『はじめて考えるときのように』を読んで、いる間にちょうど「ウェイキング・ライフ」を見たのだった。みじかーい本で読みやすいので2日で読んだが、ちょうどその間、にその本を読んで考えることを考えた。とっても良い本で、手元に置いておきたい本リストに追加します、今。

追加してきました。

本を手元に置いておくことのメリットは一に読み返せること、でその次に貸せること、だとおもっているが、後者は単に自己満なのかもしれない、と最近は思ってきた、借りた本をまともに読めた試しが、ない、ということもないか

 

それで、ちょうど夢の話をしていて、夢というものが夢であるためには醒める現実が必要であって、その対比があって、初めて夢が夢たりえる、と

当たり前と言えば当たり前だが、映画を見た時にはその夢である映像のことばっかりが気になっていて、そのことを忘れてしまっていた。

 

映画を見た時に途中でトイレに立ったし、DMMのプレイヤーが重くてちょくちょく止まってしまったので、というかそのおかげで僕はその夢から醒めることができたのかもしれない、と思うほどに映像に引き込まれたし、むしろ引き込まれてみたいようにも思ったネ

 

結局、なにが書きたくて、と、書いたところで、まだ続きがあったことを思い出した、

思い出したというか、

 

それが昨晩の話で今日は今日で図書館にいて、大学の、大学の図書館の、あのスペース、わかりますか?あのスペース、文庫と新書のスペースによく挟まれに行くのですが、ちくま、がアツいわね、と最近の私は思っています

 

ほんで、いつもとは逆から見たろうと、クセジュとNHK出版からではなく、ちくまからちくまと講談社から見たろうと、そう思って、立ったり座ったりしながら、見ていっていて、

ほんで気になる本はそれなりにあって、メモとかしながら読んでいたんだけども、

木田元『わたしの哲学入門』を最後の章、の反哲学についてみたいなところから読んでいて、ホーホーホー!って感じだったんだけど、これはおもしろいという意味なんですけど、

木田元の著作を手に取って、反哲学の章を読むのには背景があって、それもまた兄の影響なんだけど、どういうタイミングでかは忘れたけど、たしか大学入るころ?春休み?あたりに『反哲学入門』を贈ってくれて、そのときに読んだから、なんだけど、

それがうっすらきっかけで哲学、興味あり!となりましたが、その直接的なこと、本のプレゼントがなくとも別に哲学っぽいことが気になってはいただろうなぁとも思う、が、つねづね兄の影響は多大であるからして、そこから来ているというはなしもある

 

別にそれはよくて、そのあと?前にベルクソン物質と記憶』をちょろっと解説だけ読んで、えぇ、おもしろいかもしれない、と思って入門書を2冊借りた。その前の日にも本を3冊借りている。それを持ったままさらに借りた、そういうことがたたって、腰が痛い、やめたらいいのに、というか、読む本を選別したらいいのに、

 

おもしろい~ベルクソン、と思っています

 

記憶~興味ある気がしています、『物質と―』を取ったのもそこからな気

記憶~について思いますが、たぶん、別に私がほかの人と比べて、物忘れが激しい、というのではないような気がしてきました。特段というほどでは、とおもうだけで、覚えていないことはたぶん人より多いし、覚えていない、とついつい言ってしまうことが多い、ことはたしかなんですけど、

 

人と話していて、その人との記憶がない訳ではなくて、ただ違うのは、人と話しているとき、発話の瞬間と記憶を思い出す瞬間が逆なのでは?という

逆、というか、発話をしているとき、に特に何も考えていない、というそれが一番の問題であって、それが起こるのは、対人関係における気まずさ、なり、話をすることに最も配慮と重きを置いている自分の在り方が関係しているのでは?と思う

私が問いかけなり、過去の話をして、その人はそのことを思い浮かべる、という順序であって、通常、人がなにかを問いかけるとき、覚えていることについて話すのが普通で、あやふやな時になにかを言うってことはないのでは?墓穴を掘るようなだけなので?

 

いや、ここまで書いてきて、やっぱり単に記憶が薄い、だけなのでは?と思うとともにフツーに配慮と思いやりが足りていないよな、と思えてもいます

が、でもこれって結構な割合、コミュニケーション上における問題なような気もする、コミュニケーションにおいて私がなにに重きを置いているのか、というそこですか…?重きを置く、っていうか、それを置いているときに抜けてしまう部分がなぜか記憶なのでは?という?うーん?すみません、でもそういうような、こともあるような・?

 

 

身体の調子が悪くなる、全体的な調子だけども、たぶん身体から先にきている気がする、月に一度、くらいの頻度でそういう日が2,3日続いて、ウラーっと抜けていく

 

音楽が聴けるかどうかがそれなりの指標になっている気がするけど、むしろ逆で音楽を聴くことがなにかしらリフレッシュになっているのかもしれない

ちょっと前にはクラブに行って爆音を聞くことでそれをどうにかしていたようにも思う

休日に、というか、なにも予定がない日、になにも予定を入れない、というのは向かないのだと思う、いや、わからん、それがないと、それっていうのは、そういう休み方をしないとどうかなるのかもしれないとも思うけど、まぁ、少なくとも自分の家にこもっているのはあまり、と思っている

 

走ればいいのか、とも思う、走ろうかな

体力がどう、というより、運動なんだとも思う、歩くだけでは足りなくて、運動として運動を行うというのかなんなのか

 

とりあえず散歩へ