おはぎ食べてるおはぎ
てづくりのおはぎ、21時のスーパーに3割引きで売ってた山積み、とまではいわない。山ではなかった、おはぎ山、ギリないね、ないよね
2個入りのおはぎが、キーボードの前を陣取っていてまま邪魔、自分のせい
そう、部屋ってのはかなりスゴイ、部屋というか、自分の部屋、自由度がかなり高い、
なんでも、実は結構なモノを自分好みに変えることができる、DIYへの道がそこには開かれていて、そういう風なものの考え方の根、にはいつか買った、あれは、コミティア150だったか?すこしてつだったのだったが、詳しくは書かない。で、そのときに買ったZINE、すごい、2個目のサジェストがイタリック表記なことがあるか?AA、あ、全部そうなんだ、ローマ字?アルファベット?、これって正確に言うにはなんて言うの?これってあれです、英語で使ってる文字体系の、それら、の文字それ自体のことですけど、ヒンディー語で言うところのデーヴァナーガリー文字、というその部分、何て呼ぶの?、これについては調べ方すらよくわからない、あれか、言語に詳しい人に聞けば一発なのか?、
一発、あります、詳しい人にものを聞くと、一発で答えが返ってくる、というそれ、
いや、今なら別にあれなのか?会話みたいにして聞くように、でもAI、!?あれ?なんで?なんでイタリックじゃないわけ??きまぐれなの?というか、単にフォントがちがうの?英語、ではなく、ではない訳ではないのかもしれないが、言えないけどその文字とこのこれ、というのは?
以下、書くことのメモ
よつばと!と季節の記憶、保坂和志の話
誰も舐めてない、保坂和志を読むと元気がでる、これは副次的なもので、単に面白い、から読む
おもしろさ、にはなにかことば、数、量に還元できないものがある、
ゲームの純たるおもしろさについて、塊魂
サークルの活動を金、に変えてしまう、ような思考法について
作家のトークイベントについて備忘録的に
保坂×佐内正文、保坂×坂口恭平、滝口×柴崎
ただし、書いて覚えている内容は一部、にすぎない上に、僕の記憶はそこにはもうない、確実に
もう一度見返すためにリマインドをかけること
ライブおよびYくんがラジオを聞いてくれていることの感動について
↑一か月前くらいにこれを書いて、放置、のち、今(2025年4月19日)
イタリックの件、自分で読んでいても何を書いているかわからない、というのは、サジェスト、という言葉の意味がいまいち伝わりきっていない、ことにあると思う
サジェストが、どこに出てくるものだったのか、がわからない
おそらく、ZINEと打った時の表記のことについての、サジェスト、なのだろうが、一発でそれを読み取れる人はいないのではないか、というか、書いた本人でさえわかっていないもの、をわかる人って、と思ってしまうけど、それとこれとは別、というか、書いた人、というか、なにかを世に出した人、世に出す、というのは、伝える意図を持っているかどうかに問わず、それを受け取る側の人がいて、というものについて、自分、つまり書き手や語り手、描き手、広く表現者自身の意図や、伝えたいこと、というものが表現が宿っているか、伝わる、のかどうかは全く別の話なんだと思う
ぼくはいつか、短歌を詠み合う会、にいつかおためしで参加して、作者の意図、というかその歌に書いてあることから離れた、僕の解釈でその歌を良いと思ったけど、そのことは別にとがめられることでもなんでもなく、書き手を離れた作品がもつもの、や連想されることを読んでいる僕がどのように思おうが自由
で、
暑い、夏のような日
帽子をかぶっていると蒸し暑い、蒸、なのか?は知らないけど、直接風が通らないので、あつい
ロフトがある部屋、というか、僕の部屋は方角、ほかその他の影響で暑い、夏かと思う、室温が30度を超えている、今日も
外に居てもあつい、
夏になると見る映画、があって、『プールサイド・デイズ』、本当に良い映画、なのですが、僕は今日、そのことをうっすら思い出して、うっすらというほどでもなかったか
暑いから、というのもあるけど
僕が今日、たまたま出くわした、今日だけではないけども、居たその場にあのプールと同じ空気感を感じていたから、だと思うのだけど
それとは別で、別というほどでもないけど、このまま本編、本編というか話の本筋がプールサイド・デイズと今日のその場、の話に移るとそのまま忘れてしまいそうなので、備忘録的に書く、書いておく、けども
自分とは年の離れた人とこれまたたまたまいっしょに10分くらい歩いて帰ることになって、その時、当然話して帰る、帰ったわけですが、
その人はなにかの事故?かなにかで半身不随になる前に同じ場、というか、自分と同じところで働いていたので、その場にいた、らしいのだけれども
自分の父親と同じ年齢くらいであることがわかって、そのあとに自分に息子がいたら同じくらいだったかもなと言われて、そうですか、とぼくは返していて、
で、車椅子に乗って、右半身だけを使って、つまりは、右手で車椅子の車輪の外側の輪、を回していて、右足でも地面を蹴って進んでいて、僕は車いすを押した方がいいのかと思って、最初になにか手伝えることはありますか、というか、そういう意図をもってそうやって言ったわけだったが、その言い方、もよく考えたら失礼なのかもしれなかった、とも思うし、そういう意図が相手に伝わっているかはわからないままだった。のだが、結局最後まで車いすをそうやって押す隣を歩いて話して帰った。思うと、その人が見てきた景色を僕は単に想像することしかできない、という風にも書ける、が、もっと知れる、話も聞けるし、どのようだったか、を写真で見ることもできる、実際にその場にいることができないというだけなのであって、それだからどう、ということは別にない。?いま俺はなにか意味のあることを書いていたか?
で、その人もその人で、同じ場、にいて、場、というのはコミュニティ、とも言えるけど、ここでは、場、という。そこに含まれているニュアンスの違い、ニュアンスの、というか、違いはなんだろう、なんだろうというか、たんに昔気質のそういう感じが、そこにあるから、なのかもしれない、地縁、?いや、単に縁?というかなんというか?
彼はそこで、そこにいることで自分の将来にもきっと役に立つ、役に立つ、という言い方ではなかった、学びがある、という風に言っていた、と思うけど
そこで、人付き合いが学べる、という風な言い方、をしていたはずで、
だから、どう、どうというのは、だから、そこにいた方がいい、という意味合いも含まれているだろうけど、それだけ、というのでもない。これはとっても大切なことで、わりかし最近になって、僕は知ったことなのだった、これ、というのは、誰か、その人、や当然、自分もまた一つの理由、でなにかを選択する、ということがない、ということであって、
つくづく言っているように、誰かの選択、をその当人が語る時、インタビューやほか、自分の自伝、なんかのような場面において、あの時の選択やそもそも自分の過去を振り返る時の在り方、に見える景色、というのは多分にそれ自体が限られた視野、つまり、たった一つの理由や出来事によって、自分の人生というものが決定づけられたように語るが、本当はそんなことは全くない、今ちょうど読んでいる木田元『偶然性と運命』は似たような話が書いている、と思う
運命だ、と感じるときのその思考によって決定づけられる、決定、というか整理される過去があって、自分の記憶や過去が再構築されること、
また、やっぱりジンメルが書いていること、はおもしろい
他者との出会い、邂逅、偶然性に満ちた運命、にも感じるもの、は自分の内面にもある、という風に書いている、以下、きちんと引用しておく
自分自身の感情や思考や意欲が出来事となって、主観の中心的な生が、ちょうど外部の出来事と接触するようなかたちでそれらと接触し、それが運命になることもあるのだ。これは、自我そのものが主観と客観とに分かれているからである。「われわれは、われわれ自身に対してさえも一面では受動的であり、この受動性がわれわれの生の中心的な能動性に同化され、しかもこれを規定しつつ、いわばこの能動性の反射を受けて意味あるもの、われわれの生のために目的論的に規定されたものとしてあらわれてくるのである。」
『偶然性と運命』p.124
おもしろすぎるだろ~、目まんまるになった、何かの帰りの千代田線
で、本筋
『プールサイド・デイズ』は完全にサム・ロックウェルの映画で、というか、私はああなりたいと強く思うのだった。ああ、というのは、ああいう感じということであって、まんま、つまりあるコミュニティにおける立ち位置、としてああなりたい、のではなくて、最終的な到達点、としてのああ、である。
Filmarksにもまま似たようなことを書いていたはずで、あとで参照しようと思うけども
で、
今日僕がいた、場、というのもままその映画で描かれている、場、の有様と似たようなものがあって、ただし、僕が思ったような、ある種の憧れを抱くような人物はそこにはいなかったわけだが、同じような空気感を感じていて、
というのは、心地よい、のである、場の中にいる人間にとって、その場が、
暖かく映る、ものであって、
あまりに端折りすぎていてなんのことやら…とおもう、が
一旦はそう書いておいて、おいおい説明します
入り組んでいて、というのは映画の話もしながら、いや、映画の話だけすればいいのか
映画は、ある少年が主人公で、家庭内に居場所のない自分を避暑地先のあるプールで、自分の居場所を見つける、というような。(以下ネタバレありです。)ざっくりと説明するとそういう話で、サム・ロックウェルはその場におけるなんというか中心人物、場を取りまとめる、取りまとめる、というかいわゆるヒーローとして映される人物であって、これまた松本大洋的な、つまり、その場における役割のまっとう、からヒーローになる、気づけばそうなっているタイプのそれ、であって、そこに私は憧れるような要素が、あるとも思うのだが、
今日の場、で僕がおもったのはその彼、のような存在、人物について、ではなく、その場、自体の話で、
サム・ロックウェルは居場所をそこで見つけた少年に対して、最終的に決別の決断を勧めるのであって、その理由はその場だから、なのだと思う。
その場、と呼んでいるのはサムの職場であるプールのことであって、決別するべきだとするのは、そこで築かれた人間関係やコミュニティ、などもろもろを含んだそれ、なのだが、
その場の内部にいると、その場が温かく感じるものであって、これは逆に言うと冷たく感じる、というものはその人や自分がその場の外部にいる、ということの証なのかもしれない
その場、に対して反発の気持ちがある、どこかでおかしい、くるっている、ような、権力の偏った勾配やそれを使った面白くもないジョークが行き交う空間、というものを感じるうちはまだ外部にいる、のかもしれなくて、かも、と言いながらかなり確信に近いものがあるが、そういう風で、
また、今日、感じたことはそれはかなり内部を強く包み込む一方で、外部をかなりの重さで必要とする、ということであって、外部を意識させる状況を内部に生むこと、感じさせること、がある意味で内部の強度や各々が持つ内部への視線を集中させる。
その内と外、とを分けるものはさまざまなベクトルが存在するであろうが、こと職場、というものにおいては、そこで働く人間がどれくらいその業務や仕事、というものに打ち込めるか、であったり、「有能」な人や、「使える」奴であるどうかにかかっていたりする。それはある意味で理にかなっているのかもしれなくて、職場、というものである以上、そこにそのように居られる人をこそ内部に取り込むのが正しい、正しい、というのは資本主義的に効率が良い、という意味ですが、そういう風なことになっていて、それ自体にはまったく魅力を感じない、魅力を、というか、だからなんなのか、と思うけど、人が人であることにそれは全く関係のないこと、だとおもう。
で、こと家族、や家族…、というくくり方、もまたおかしいと思う、というか、そういう風な言い方、くくり方、がしがらみになる、ということも当然あるのであるとすると、親密圏、という方が正しい、のかもしれないけれど、私が映画を見て、感動する、というものの中に含まれているそういう風なあり方の人間関係には、そういうもの、つまり、誰かがなにかの状況においてよくできるということ、それは能力、というような言い方になるのかもしれない、が、能力というか、一般に「使える」や「有能」という言い方、通常、通常ってなんだ…、いや特殊な状況下における人間関係において、使われることの多い語彙、で表しきれない人間へのまなざしが行きかうとき、それはつまり、その人自身を見ている、ような感覚が見て取ることができるから、感動するのかもしれない、と思う、思えてきた。これはつくづく、そう思う、というか、何度でもそう思うからそう書いている、今は初めてその二つ、がつながったような気がする。二つ、というのは、場、と親密圏、の話のこと。
職場、における内部というものにおける人間のヒエラルキーは、おおむね、その人が「使える」かどうか、にかかっているのかもしれなくて、それだけ、というのではないにしろ、それが力学としてはたらいている場、にいる、というのは自分が、そのようにできるかどうか、限られた時間内だとしても振る舞いとしてそれを全うすることができるか、というのを求められる点において、それは相当にしんどいものであろうということがわかってきた。さらにたいへんだ、と思うのはそれがそのようにはたらいていること、というのをある種の茶番、茶番、とまでは言わないまでも、それが単なる職業上、つまりその人の人格とは異なるもの、として考えなくてはならないはず、であるのに、それが直接結びついてしまう場、になりかわることがままある、というのがかなりの場合、しんどい、のでないか。
それは、つまりはできる人だけが楽しい、空間になるのであって、それは別に職場、としてそれで成立するのであれば、別によい、なぜなら程度の差、はあれ職業選択には自由があって、それを様々に選択できる、とされている、から。実際のところはそうでないのかもしれないが。それは今考えたいこととは別なので。
社会として、つまりみんながみんなで生きる場、においてそれがそういう風になると、つまりは、生きることが上手な人だけが生きていて楽しい、でいいわけがなくて、それは絶対にそうだと思う。
自立、という言葉はどういう意味なのか
不可能だと思うのですけど、一人で立つって
自立ということばのことを、依存先を増やすことだ、と言っていたのは誰だったか
何の話がしたいのだったか、メモがありますので、幸い
上のメモから引っ張りますが、
「よつばと!と季節の記憶、保坂和志の話
誰も舐めてない、保坂和志を読むと元気がでる、これは副次的なもので、単に面白い、から読む」
そうなのだった、よつばと!の話、最新刊16巻が出たのだった
14巻くらいから、毎巻読み終わるたびに少し泣きそうになっている
よつばと!のなにがよいのか、というか、おませちゃんブラザーズで、よつばと!について語れる人、を募集していて、それに自薦する勇気はなかったが、一番好きな漫画であることはゆるぎなくて、それについて、つまりよつばと!の何が好きなのかについて考えたことがなく、これを機に、これ、というのは、その動画が作られることを機に自分で一度考える必要があると思った
よつばと!に出てくる登場人物は誰もよつばをなめていなくて、それがすごく、良いと思う。なめる、というのは子供だからこれくらいで、みたいな手加減を含むが、そういう人を人としてみないような態度を取ることがなくて、それは、保坂和志『季節の記憶』のクイちゃんに対する周りの大人、の態度、特に美紗ちゃんがそういう感じで、それが良い、と思った
で、保坂和志の話、
の前に、なにか好きなことを語ること、について、
前まで怖気づいて、まさしく怖気づいて、という感じだが、ことばにすることを恐れていた、わけだったが、それはさっき書いたような、人の選択の理由や言葉にすることが生む1つに絞ること、のようなこわさ、に対するものだった。つまり、なにかがこれを理由に好きである、と言ったとき、にそれがその一つに集約されてしまうこと、というか、それ以外が見えなくなることに対するこわさをもっていて、でも、それもまた選択、に対する弁明と同じように一つにはなりえない、ということを身をもって知った、ので、それもそんなにこわくない!こわくないぞ!
保坂和志、の小説は読んでいて元気が湧く
それは考えること、自分で考えることの自由を思い起こさせてくれるからなのだと思っていて、思い始めていて、というのは、読んでくれれば一発、とまで言わないまでも、そういう感じなのだ。書いてあることが。単純に読んでいておもしろい、が、それはそこにある、のだと思う。元気が出る。というのは、自分で身の回りのものごとについて考えてよい、ということを、思い起こさせてくれるから。
メモの続き
「おもしろさ、にはなにかことば、数、量に還元できないものがある、
ゲームの純たるおもしろさについて、塊魂」
ことばにしたわ。ラジオで。いや、全部はできない、という意味で書いたのだろうけど。それはそう、その通り。だから、何かに対してなにがおもしろいの?って聞いて、うまく答えられなくても仕方ない。というか、当然なのです。それはやってみないとわからない、の部類なので、なにかについて、そういう風に聞いて返せないのも返ってこないのも、当たり前なのでした。
ゲーム、はわかりやすくそうで、塊魂、がどうおもしろいか、を言葉では説明しつくしえないし、そこにあるようなプレイ自体の気持ちよさについて、ことばで説明しようが、数や量、つまり、どれくらい売れたかや、どのくらいプレイしたか、というような表し方では語りつくせないものがあるのである。純たるおもしろさ、はプレイする本人にしかわからないのであって、それを外野がどうこうは口出しできない。
で、塊魂の話、ラジオでも話した通り、と言えばその通りだが、
グーグルキープに残っていたメモ
「塊魂の感想
シンプルさ:ころがす→くっつく→世界をまきこむ…最終的に星にする
:大きくすること、なること
…見えなくなること…小さいものはどんどん
世界の見え方と、一緒:
点数が出るのは余計」
真ん中あたりのことを言いたかったのだったが、伝わっているのかは謎、いや、聞き返したけどまぁだいたい伝わっていそう、と思う
「サークルの活動を金、に変えてしまう、ような思考法について」
これ、そういうことか、おもしろさ、の話につながっているから、改行せずに、というか一行空けずに書いていたのか、
そうなのだった、おもしろさ、というのは金に、つまりは、時給としては換算されないのであって、そういう話をしたかった。
かつてサークルをやめたいという後輩に、サークルの活動がお金にならない、つまり、自分の金銭的な得にならないのにやることに意義を見出せない、、と言われたことがあったが、それにうまく返せず、どうしてか心残り、というか不思議とおぼえていて、それに今なら多少意味のある返答ができそうだと思った、別にその返答をここで書きはしないが。おもしろさ、は数量や金銭的な大小、といったものに直接的に還元できるものではない。
「作家のトークイベントについて備忘録的に
保坂×佐内正文、保坂×坂口恭平、滝口×柴崎
ただし、書いて覚えている内容は一部、にすぎない上に、僕の記憶はそこにはもうない、確実に
もう一度見返すためにリマインドをかけること」
は~、いったん保留。というか、また今度書きます。
リマインドかけ忘れた、いや、かけていた、けど、視聴期限が過ぎてしまって、本当に見たかった部分が見れなかった。ざんねんです。
おまけ
東京外国語大学出版会と図書館が共同で発行するpieriaという雑誌に、ちいちゃい書評を載せてもらっていて、それの本分と解題?解説をここでしておきます。
僕の「橋と扉」
ロフト付きの6畳のアパートにかれこれ4年住んでいる。ちょっと派手だけど、白い壁と青い屋根が気に入っていた。ギリシャのサントリーニとまでは言わないが、そういう感じ。
ある日、バイトから帰ってくると青い屋根が茶色に変わっていた。外壁の塗装をしていることは知っていたが、色が変わるなんて聞いていない。塗り直され真っ白になった壁と対照的に、薄汚れたままの扉を開けて入る自分の部屋の中は、ペンキのにおいがする。
渋谷のライブハウスからの帰り道、電車賃の節約もかねて、隣駅まで歩く。途中、原宿駅のすぐ近くにかかる水無橋を通る。橋の下には川は流れてなくて、代わりに電車が行きかっていた。22時のその橋の上には僕しかいなくて、見下ろした先の山手線には人がたくさん乗っていて、誰も僕を見ていない、でもそこには人がたしかにいる。自分以外の他者が。
色んな日常の中で、私は他者とかかわりながら生きていて、そこでうまくつながることができたりできなかったりする。そういうあわいの中にいて、ふと「自分」というものがわからなくなる。
そこで他者との関係から自分について考える。
個人同士の相互作用によって成立するもの。社会学という学問を始めた一人、ジンメルは社会をこう定義する。社会はあらかじめ存在するのではなく、他者と共同でつくるものである。そこには人と人の関係があって、つながりがある。ぼくはそこに橋をかけたいと思う。あなたのために目の前の扉を開けたいとも。
『pieria【ピエリア】2025年春号 戦争のクロノロジー』p.63
メモ
「解題:ジンメルの代表的なエッセイ「橋と扉」から、橋の話と扉の話
また、断片的に、日常のものごとから着想を得て、思想を深めるジンメルに重ねて、最近のできごとから書いてみる
言われたことや、聞いたこと、読んだことなどから直接、自分のなかから、とまでは言えないくらいのことばを借用して使ってみる。、サントリーニ、あわい、
人を、想像させること、、散歩、歩くこと、からの気づきから:あらゆるもの、ことに人がかかわっている、ということ:外壁塗装、も自分の家ではあるが、そこにはいろんな関係先があって、人がどこにも関係している、電車もまなざす私と、まなざされない私がいて、その先には当然人がいる。また私もその一人の主体として、つまり、人を見つめる人として、存在する、相互に関係がある、こと
電車のシーン、情景として、私と電車の中の人、には高低差、つまり橋の上とその下、という上下の関係:形式としての上下関係がそこにはある、ということの示唆
(構想段階では、散歩→暗渠→暗橋:暗渠にかかる橋というものもありかもと思ってた、好きだし、散歩。が、説明に字数がかかりすぎるかも、と思う)
一人称の揺れ:僕、自分、私、ぼく。これ自体がそもそも、自分が悩んできたこと、つまり、自分についてだんだんわからなくなっていく、ということを示しているのかもしれない、と思えてきた
→関係や社会ごとに異なる自分、という可能性
扉を開けることの比喩:自分の部屋の中、プライベート空間としての私の部屋、自分の中に入ってくることを許された他者、入ることにおけるハードル、
部屋⇔橋:どちらもいるのは一人、だが、かかわる人数、は異なる?:ひとり→開かれた空間:社会へ
扉を開けるということ、開くこと…イメージされる扉:片開き、的なイメージの先行
→当時のドイツでは?、両開き?:実際のところ、ジンメルはどのようなイメージをもとに、扉を描いたか
開くこと:下の名前!と一緒で、結構、かなり嬉しいな、という感じ」
ジンメルという人が僕の出会い!、これも運命と感じるようなもの、と最近思う、
彼にかなり惹かれているというのは卒論うんぬんでわかる、かもしれないが、
哲学者、社会学者、思想家?ジンメルには代表的なエッセイがあり、そのタイトルが「橋と扉」というもので、人の持つ認知能力について、橋と扉という身近なものから発想を飛ばして、彼なりの解釈をする、という内容の、エッセイである。
彼はそういうエッセイをたくさん残していて、そのどれもがかなり、おもしろい。どれもが、と書いたがそんなによんでない。『ジンメル・コレクション』がおすすめです。読み切ってません。
僕もエッセイ風に書評を書こうとしたのは、エッセイストでもあったジンメルへのリスペクトも込めていて、日常のものや出来事からはじめてみた。で、サントリーニというのは今の家を見繕ってくれた元バイト先の先輩、そのときは不動産屋で働いていた、人が、かつて青かった屋根を見て、言っていて、あわい、というのは大学の後輩の人が、ブログで書いていた、から借りた。 あわい、という言葉自体は『出逢いのあわい』という本、で見ていた、見ていたというか、その本のタイトルが思い浮かぶが、その本は途中で読むのをあきらめた。ただ九鬼周造に関する本で気になってはいる。いつか読む。読むことのハードルが今、過去最高調に下がっている。最高潮に下がっている?しかもハードルが?わかりづらい…。乱読の時代が来ています。で、その人、著者の宮野真生子さんを知ったのはたぶん、共著のある磯野真穂さんから来ていて、彼女の『他者と生きるリスク・病い・死をめぐる人類学』という新書はかなりおもしろかった、!
九鬼周造は偶然性をテーマにしていたのだった、読むしかないっ!いや、というか、偶然性×家族、といういま、僕の中で最もホット、そんなに?かもしれないけど、たまたま新書を読んでいるだけ、なので。ですが、そういうところから手を伸ばす、ほどにハードルは、下がりきっています。
で、書評の話。
「電車のシーン、情景として、私と電車の中の人、には高低差、つまり橋の上とその下、という上下の関係:形式としての上下関係がそこにはある、ということの示唆」
シーン、と言っているのが鼻につく、が、言いたいことは本人なので当然わかる。そう!そういうオマージュも入れてみていたりする。誰が気付くのか、というかこれすらもまぁ、事後的に、つまり書いた後にそういう風にも解釈できるか…とおもって書いている気がする。、内容については、ジンメルが重視した社会:相互関係における形式の1つであるところの、上下関係というものへのイメージ的なオマージュがあります、ということです。
「一人称の揺れ:僕、自分、私、ぼく。これ自体がそもそも、自分が悩んできたこと、つまり、自分についてだんだんわからなくなっていく、ということを示しているのかもしれない、と思えてきた
→関係や社会ごとに異なる自分、という可能性」
ははーっ!おもしろい~、それはかなりおもしろいですわね~~~
はっはっは。
まぁそれくらいです。