朝の光が続いている

ひたすらにハイ、

家主を聞き狂い、励まされもする。

映画をちょこちょこ見ては感想を書くこともなく、自分の中だけで取っておく、取っておく、という感覚でもなく、ただ見た、というだけの過去だけが残っていて、それを残しておくというのの管理にFirlmarksがあり、それで、Filmarks、ありがとう、いろんな映画をリバイバルしてくれて。

『きみの色』を見て、けいおんを見てないが山田尚子の描く世界に想いを馳せたりしながら、それで、まぁすごく感動したわけだが、それを自分の言葉でどうこう言ってみたりしない、というのは、ちょっと言葉にすることとか言語化?みたいなものに抵抗している気持ちなのかもしれないが、思えば僕の人生にそういうもの、内から来る思い、みたいなものを吐露するような機会というのはあまりない、のでは?

最初から最後まで散文的に、思いというものがあるとするならずっととっちらかったままをそのまま書いているにすぎなくて、これは世間でいうところの言語化というプロセスとはまま違うのではないのか?だからなんだ、というか、根本的に僕は誰に向けてもここで文章を書いていないので、読者を想定しない言語化、は言語化というものの本質を欠いている、のではないか?

別に自分が読み返せればそれで十分、ということを思うと、外に向けて出すということ自体になにか意味があるわけでなく、その機会として、ブログがあり、まさしくログ的に、記録的に、日記的にこれがあるのではないのか、

 

『きみの色』で、映されたものを解釈、することは言語が必要なのか?、映画を見たり、絵を見たり音楽を聴いたり、そもそも芸術というもののジャンルの中でそういうものを言語を介さずなにか人に伝えるもの、伝えなくとも、見たり聞いたりして、感じてしまうものがそもそもの本分なのでないのか、?

悲しいときに雨が降って、現実の情景表現ウマ…、と思ってしまうこともあって、

 

寝る時にはなにもつけずに寝る、のがやっぱりいい気がする、エイヤ!で変われる自分が確かにいて、なぁなぁでつづけていることを断ち切るのに僕に必要なのは、百均だったのだと思う。

百均に行って、店内に入ると、欲しいもの、というかめぼしいものを見つけそこなってしまうことが多々あり、これはそこそこあるあるか、と思って、百均の話題になるたびにそういう風なことを発言している、

しかし、百均には何度でも行けばいいのだ、欲しいものができるたびに、百十円を自動レジに入れて、自分のカバンに突っ込み、家に持ち帰って、愛用すればいい。愛用せずとも生活がそれで少しなりとも変わり、今までがこれからに向けてなにか変わることがたしかにある。寝る時、携帯は机の上に置き、自分の枕元に置くのをやめる。

俺はいつか百均でキングバンブーの観葉植物の鉢を買う。

備忘録的にそう書く。

百均に行くことになるたびに、ぽんぽこの動画を見ては、欲しいものがないか探したり、もするが、たいていのものは買わずに、動画自体もながらで見て、なにが紹介されたか、さえもあまり覚えていないときが多々ある。

自分の書く言葉に飽きる瞬間がもしかして、あるのかもしれない、

僕は誰に向けるでもなく、しいてあげるなら自分に向けて文章を書いていて、というか、文章を書く、ということがどこかかっこつけているような気持ち、そこに伴う特権的な響きの中で、それを消極的に認めながら、というのはこれをあえて僕はブログに残し、誰でも見られる状態にするということによってそれを認め、その一方で自分が書きたい、というよりかは自分の整理のためにキーボードを打っているにすぎない。

 

なにかを読むことによって、読書の幅は広がり続ける。

世界史の教科書を読み、デューイが読みたくなって、ちょうどこの前買った『経験と教育』を取り出して、取り出しただけで特に読まない。そういう本が10冊並べてあって、まずもって並べることができることがなによりもうれしいことなんだと感じる。

本が手元にあることがそれをするための条件にあって、読みたい本が読みたいときに読めるのは幸せなことだと思う。

 

いつからかそんなに社会に怒ることができなくなって、自分の考えること、の矢印が自分の内側に向き始めてそういう感じ、になったと思う。

明確に覚えているのは、上田啓太という人の書いた『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』の発売記念のトークショー、みたいなものに行った時のことで、自分に対する興味と社会に対する怒り、みたいなものが割合として3:7くらいの時期で、ジモコロに連載していたその本の元のウェブ記事を読んでいて、おもしろかったからそれに行ったのだと思う。登壇者は著者と原宿で、原宿を見たいと思ってもいたと思う。両者にサインももらったが、トークの内容それ自体は特に覚えていない、というか本に関することとか本人の生活に関すること、が大半だった、そらそうだけど。で、質問コーナーの時、ぼくは社会に怒ってばっかりだったので、著者に対して社会についてどれくらい興味、興味というか、まさしく怒り、というものがありますか?みたいな質問をして、それに対する返答が、

いや、自分のことに忙しくて、自分のこと、というか自分というものについて考えるのに忙しくて、社会についてはあまり、

というような返答だったことは確かに覚えていて、その時を境に、なんだか社会というものの実体をとらえ損ね続けてきたまま、ここまで来てしまっているような気がする。特に後悔はない、というか今から考えるとよくもそんなに怒ることができていた、とも思うが、怒らないといけない場面は確かにある、社会に対して

しかし、どうにも僕は性格上、どんなことにも割り切れないようでいて、社会をとらえることについて、今はどのことを考えてみても、いろんな側面があって、それはそれぞれの正義が、と思いとどまってしまうことが多々あり、

と、いうことを書くとき、僕はコールバーグの発達度合い的にどの段階にいるんだろう、と唐突に心理学の話に飛んだりする。

別にその思考法が発達の度合いのどこにいても、というか思考が発達、というものの観点からどのようにとらえられているのか、僕はいまだによくわかっていない。よくわかっていないままキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』を読んでいたりして、自分が生きてきた性、これからも生きるつもりであるその性とそれを生きていかせる社会のことを思ったりする。

割り切れないこと、は特にそんなに悪いことでも、というか、それはそういうものだろうとも思う。いろんなことにいろんな人やいろんなものが確かに関係していて、それを一面的に理解せざるを得ないような自分がなにかのジャッジを短絡的に下すことなんて、と思う。

で、その背景に、僕はずっとポストモダン的な思考、世に真理とされているものを相対的にとらえてしまう癖、もあり、それについて、今まで明確な言葉が当てられてこなかったが、最近になり、それとこれが、つまり、自分を渦巻くその考えが、社会の、思想の、潮流、ことばとしてあることがつながり、考える上での糸口を、考えるというか、なにか手綱みたいなものをつかんだようなそんな気持ちになった。

鶴見俊輔『漫画の戦後思想』の冒頭、漫画というものについての概説みたいな部分にそういうむなしさ、自分がようやくつかんだように思える真理、みたいなものが時代の流れとともに簡単に崩れ去っていくことがある、ということを書いていて、わりかしとても感動した記憶がある。自分の思っていることを書いてくれて、ありがとう、という気持ちで、そういうことはすべての考えにありうる、と保坂和志はしきりに語っていて、そうなんだ、と思う、そのあとのこと、それでどうなんだ、というのが大切だろうと思うが、それ以降は忘れてしまった。もしかしたら続きは特にないかもしれない。

思えば、『うらおもて人生録』で書いていたことも通じることなのかもしれない。人は誰かによってではなく、自分が自分のためになにか定言めいたこと、つまりはこれは確からしいということを携えて、考えて生きる必要があり、それというのも1つ打ち立てられたら未来永劫、後生大事にするものでもなく、常にそれが正しいのか、このときの正しさ、は社会に照らすのか、自分に照らすのか、両者なのだろうと思うが、そういう趣旨のことを何度も繰り返し言っているパートがあって、もしかしたら、それも全部自分の思い違いの可能性があるが、それでもそれはそういう風だと思う。

思考停止に陥るのが一番残念だ、と思っていた時期があり、それを最近うっすら思い出して、そうだった、と思ったが、それもまた同じようなこと、誰かにそれをぶつける、ぶつけるというか、誰にも当てはまるテーゼとして存在するというのではなく、少なくとも自分はそうありたい、この場合であれば思考停止に陥りたくない、というような、そんなことを一つのテーゼとしてまとめたときの言葉がそういうことだったのだと思う。

いま、そういうものがなにか1つ取り出せるものとしてあるか、と言われたらそんなものはなくて、一つでもあれば素敵なことと思う。というときの気持ちには、後ろにポストモダニズムが控えているような気がして、どれもこれもが、どうせ、時間が経てば、そういう一時期の真理に過ぎない、というか、今の私の場合は、そういうものが真理というふうな、というのはたった一つの決して揺るぐことのない真理というものを言っているわけではなく、その時の自分が信じるに値するなにか、言うなら信念、みたいなもののことを言っていて、それすらもが、時代のせい、にしているせいだが、みつけそこなっているのでないのか、今を生きていることだけが取り柄だったといえるのに、それすらもない、というのが、今、でそれはそれで、過去の私とは別のところに自分が来ていることの証拠なのかもしれないが、

誰かとつながることや承認されることを希求するというのはどんな感覚なんだろう。それが確かに当たり前、のことのように語られるし、その感覚を有していない、という風に言うことさえどうなのか、と思う、というのは、自分が認識できている感覚、というか、感情のようなもののうちにそれが含まれていない可能性が大いにあり、しかし、これは言葉にして自分がどんな感覚なのか、またほかの人がどんな感覚で生きているのか、を知る必要が確かにあると思う。それが人間にとって根本的なものであればあるほど。自分が仮にそうしたつながり、というものに満たされていた、のだとして、それが、ある状態からない状態へ行くこと、というよりもそれを自分の理性でもって理解、認識、することができるようになること、が思春期の本質なのかもしれない。思春期、というものが他者という存在の登場によって起こり、それをどのように対処、していくか、が思春期以降の大きな問題としてわだかまっていて、と、言うとき、僕はたいていの大人たちがそれに対する明確な解決、解決?というか対処を持っていると思えない、いや、思えないというか、どうにかこうにかやってきた、というような感じに見受けられる。誰かによる承認をもとめるということは他者とつながること、でもあり、そうだとするなら、自分以外の誰かとつながることを私は、みんなはどうとらえて生きていて、それが合致するような人といっしょに居ること、また、そうした感覚の全く異なる人同士がいっしょに居ることは、互いにとってどんな気持ちを思わせるのか、

傷つくとか、自分にとって嫌だと思う、みたいな感覚も実は人によって全く異なるものだと思う。そうだとして、それを嫌なことだ、と認識するためには自分ではない誰かの声を聞く必要があって、言われなくともわかることがあるかもしれないが、

テーゼはなくとも、テーマはあり!声高らかに!

誰かとつながるってなんだ?

いまを生きるってタイトルの良い映画がありまして

まっすぐな自分、というものを想像してしまう、その癖はなかなか抜けないもので、純真無垢な自分、というものを最初に持ってきてしまうと、どうしても、今ある自分というのを受け止めきれなくなる。例えば、何かを書いている自分、がキーボードやらパソコンやらの入力機器、媒体、サイトにおける何らかの表示、によってなにかしら書く内容、このときの書く内容、というのが自分の思い、考えだとするなら、それが、ブレる、というのを想定してしまうこと、僕はこれまでにそういうことにふと気づくととらわれている瞬間が多々あり、とらわれている、というかふと気づくとそういう風なものの考え方をしていて、考え方をしていることの証拠、はブログやらなんやらにそういった類のことを書いていることがあり、複数回それが見られる、と思っている(すべてを読み返したわけではないから実際にはわからない)。で、それはつくづく間違い、間違いとまではいわないまでも、私が周りのもの、と自分の身体というものを通じてつながりあっている事実を受け入れるなら、そうした関係しあっている自分、こそが自分なのであって、もはやふと気づくと想像している、純粋な自分、純真無垢なわたし、というものは存在しない。

ということを『新・哲学講義「わたし」とは誰か』の受け売りで書いているが、まぁ、それはたとい27年前の本だとしてもわりかしその通りだと、今はそう感じる。その上で『ケアと編集』が思い浮かぶように、そういうことなのだ。どうしようもなく流されながら、流されながら、というかその場、にいる自分の身体、周囲のものや周りの動かせるもの、動かせないものに取り囲まれながら、取り込み取り込まれながら、生きているのが人間であり、そうした中でつながったり、つながらなかったり、を繰り返している。

僕の中での、一大テーマ、テーマというか、常々頭をもたげている主題というようなものがいくつかあり、それらを通底するものがきっと、なにかとのつながりなのかもしれない。つながり、関係と言う方が正確?いや、ぼんやりしているが、まぁそういうことであって、

誰かとつながっていないとどうしようもなく不安であるのはきっとその通りで、それは思春期を超え、誰かの声が自分の声と同化したり、聞き分けられなくなったり、自分の声がなくなっている場、その時において、そうした心性になるのはある程度仕方のないこと、仕方のない、というかそういうもの、であって、なら、思春期を迎える前はどう生きていたのか、と思わなくもない。そこには自分、というものの声が確かにあったのか、?そんなようにもないと思う。明確に親、やら誰かの庇護下にある子どもたちが、自分の内にある声、というものをそれらの影響なしに外に出せる、とは思えない…、と言い切ってしまっていいものか?

これを外、誰かほかの人が読める場に置く、という行為自体もまた誰かとのつながりを求めている叫びなのかもしれなくて、それを自分が理解していなくともそうすること、そうしてしまうこと、というのが不思議でおもしろい。というかこれ、自分の行動を理解すること、が自分の声を聞くということの内に含まれていたりするのか?、わからない。ぼくはつくづく自分の声もわからないまま生きているのか、もしれない。

怒ることがない、というのはままそういうことなのかもしれない。自分の感情、について不感であること、というのは過去のなにか、がそうさせるとしても、今をそれで生きている、現状を肯定するしないにかかわらず、そのまま生きているということから、積極的に変更ができるものではない、必要性をそこまで感じないから。怒るということの積極性、良さがあまり強調されることはなく、できることなら怒らないほうが、よい、というのは周囲からの意見に過ぎないのかもしれない。本当は、自分のためには怒った方がよい、ということもあるのかもしれない。自分の感情を自分で感じることができ、それを伝えるかどうか、は別としてもまずもって、それが自分にとってのエッセンシャルな部分であるということの自覚を、怒ったり悲しくなったり、といった情動は確かに呼び覚ますものなのだと思う。というのも、さっきの本から引き続いている話だと思う。

誰かとのつながり、それが特定の誰かであるかどうか、自分にとってどういう人なのか、もまた重要なところ、考えるべきであろうが、僕はかつてどっかの映画のレビューに書いたような気もするが、

いや、情動の話に戻るとすると、自分の感情についてよりもっと真摯に向き合うべきなのだと思う。誰かが言った言葉が確かに自分の言葉ではないのと同じように誰かの感情は私とは異なるもので、その峻別はつけておくべきだと思う。それはトレーニングがわりかし必要な、というかトレーニングをすればできそうだと思う。が、私は私の言葉、をどう見分けることができるんだ?私が言った言葉は確かに私が言った言葉に違いないが、それが仮に過去の誰かによるもの、誰かが私に植え付けるような形で放たれたものだとして、それが気付けば自分の声になっている、ということもきっとあるはずで、その区別がはっきりとつく、自分にジキルとハイドのような両極端な二人、それほど激しく対立していなくとも、魔女の宅急便のキキにとってのジジ(『ぼくと〈ジョージ〉』の中で鈴木敏夫がジジはキキにとってのジョージ、つまり自分の内にいる一人であると言っていた)のようにして、明確な分かれ方をしているのなら、事態ははるかに簡単であろうが、それらが統合した形で自分を巣食う場合、どこからが私でどこまでが私であると言えるのか、ということにはならないか。あんまり煮詰めるとなにも信じられなくなりそうだが、これはむしろ考え方を反転し、なりたい自分になれる、ということの証、根拠にもなりうるのかもしれない、と思わなくもない。つまりは、信じたい自分を私は確かに信じてよくて、自分の内なる声を否定して、つまりは自分とは異なる誰かの声だとして否定して前に進むことだってできるのではないか。

つながり、の話、というか、菅野仁『友だち幻想』に移す。最近読んで、まだ読み終えていないが、なんなら初めて読むのかもしれない。菅野さんの一番の出世作なのに。しかし、その中でもやっぱりつながりの話をしていて、まだまだ前半の話の中だったと思うが、同調圧力、つながりにおけるしがらみについての部分を読んで、割と心がスッとした感覚があり、自分にとってのテーマがやはりそこにあったのだ、と腑に落ちた感じだった。というのは、やはり周囲との関係の中で生きている、生きるしかない自分が、そこに自分、を感じながら生きる、ということがどうしても難しい瞬間があり、それに思い悩んでもいて、そのことを含めて僕は、これまでの数年間を思春期だと考えていたところもあるかもしれない。

周囲、それが自分と関係しているというだけで、その場にいる他者は自分にとって、たいせつな他者寄りであるはずで、見知らぬ他者ではない。人生の中、というか生きていく中にはそのグラデーションの中でものすごく濃い大切な他者がいるはずだが、あくまでもやっぱり他者なのである。それは絶対に譲れない。どんなに自分がその大切さ、に譲歩をすることがあったとしても、他者は他者であって踏み越えることのできない壁、があり、それを超えることがあるとしたら、それは自他の範疇をはき違えていると思っていい。その場に自分はいない。

他者に自分が揺らぐことはあるだろうが、割り切れないところで絶対的に自分がいて、それを侵されてはならない。

しかし、難しいのは両者、自分と他者をつなぐものの有力なもの、として言葉があり、それを私はどうしてもはき違える瞬間があるのだ。自分の言葉、声を失い、誰かの声が、それもまた自分が想像した誰かの言葉でしかないのだが、それに左右されて自分を失うことがままある。生きていると、どうしても元気がなくなる時があり、そうしたときには自分の声が聞こえなくなり、誰かの声で満たされてしまう。

しかし、言葉・声もまた自分そのもの、ではない。自分そのもの、という書き方は語弊を生むかもしれない。自分そのもの、というものは私が関係の上で生きざるをえないことを前提すれば想定できないのだが、言葉も声もそれを構成する1つにすぎないのであって、どんなにウェイトがそこに置かれようが、私そのものを乗っ取るほどではない、と今はそう思える。元気だからだが、きっと忘れてはならないことはここにあって、私が自分の身体とともに、また周囲のもの、人やもの、自然や、時とのつながりを確実に持って生きていることを思えば、誰かの声・言葉など当てになるはずもない、のだが、どうしてもそれを自分のすべてだと考えてしまう瞬間があるのだ。しかし、忘れてはならない。自分は自分を生きていて、それは周囲とのつながり、自分の過去やさらにさかのぼった時の重みを、経験、記憶、そうした様々なものの綜合としての自分があり、今を生きているのだ。

そう考えて、初めて自分で自分の責任をもって生きること、つまりは自分の人生が始まるのではないか?

誰かのせいにするのでなく、自分でどこからが自分であるか、を自らが引き受け、誰かによって左右された自分がそこにいたとしても、さまざまな綜合の、関係の末端にいる、今の自分がその選択をして、それを責任として引き受け、自分の言葉として、また関係する、誰かとつながる。そういうことなのではないか?

カービィのカインというキャラクターについて

さて、映画である、今、私はHuluの無料期間中であり、Twitterでたまたま見ただけ、のその触れ込みで知った『すいか』という2000年代のドラマを1話だけ見たがために、主人公の女性の俳優、名前は忘れてしまった。ドラマのひらやすみでナレーションをしていて、パンと音楽とアンティーク、みたいな名前の映画の、主人公、でもあり、その映画もまた見たい、と思っていて、しかし、これを見たら、私はHuluを解約する予定である。なぜなら無料でなくなるからである。

ぽこぴーの回覧板も見れる、静岡の10分を見て、やめた。

映画、ちょこちょこ見ていて、それらを記録するのを怠っていたので、どれを見たのかあまり覚えていない。最近だと『スワロウテイル』、岩井俊二の映画で、ちょい昔だなーと思ったのは、長回しが過ぎることで、今の価値観からすると、長すぎてもういいよ、と思いだしかねない、ところが多々あって、別にそれはどうでもいい、というかそれが昔ゆえ、なのか岩井俊二がつくるもの、に起因するのか、はわからない。

作中のちょうちょの記憶の回想、かなりよかった。主人公の境遇をめぐって、自分で自分の記憶をたどる時のその回路、思い出し方には、自分の人生、を離れてしまわざるをえなかった人、による俯瞰的な視野、自分で自分のことを一つの悲劇の主人公と見立てることでしかその場をやり過ごせなかった人間のそれ、が他者による導きによって、自分で思い起こさせられる。自分の視界が俯瞰・蝶・少女自身、へと移っていく過程、戸惑いが映像それ自体によって映し出されるのが印象的で、、と、いうことを思うと、アリ・アスターが描く映画、といっても僕はへレディタリー、しか見ていないが、そこで映される、というか行われる、自分が次第にその物語に引き込まれていく、というかその登場人物の視点で展開されるものをスクリーン自体が映し出されるような展開、というものにも近しいと思う。『クィア』の後半から終盤にかけても似たようなことがあって、それは映画で見ていて、気持ちがいい、というか映画館で見る価値のあるようなものに思う。で、これは、映画の技法でいうとなにか名称があるのだろうか、

 

最近は、2,3日の間での出来事でしかないが、腕時計を池に落としたり、ぼやぼやしながら働いていたらミスしていたり、小腹を満たすために買ったチップスターの蓋で親指を切ったりしていて、そういうことばかりを羅列するとなんだかツイていないように思えますけど、それはそれとして、なにかが起きたことを記憶しておくにあたって、良いことよりも悪いことのほうが覚えていやすいのかもしれない、認識として、それが悪いことで、そういうものになにか宿命なり、なにかの原因がある、ということを思ってしまったり、というのはやっぱり人間に特有の、特有とまでは言わないまでも、人間にある、思考のパターンなのだと思わないこともない。

 

ベローチェに行けて、本当はイトーヨーカドーの下にあるドトールに行こうかと思いきや、やっぱりベローチェか、黒猫がいるし、と思って、アプリを開いたら、このアプリは終了しています、と出て、あぁアプリも終わりがあるんだ、それはそうか、と思いながらレジでカフェオレを頼んだら、カウンター越しに対になった自分よりも位置が高いところに立った店員さんから、「アプリはありますか?」と聞かれ、ないです、と言いながら、終了したんでは、と思ったのち、新しいアプリがあることを知り、インストールして、100ポイントをゲットした。

ベローチェほか、純然たる喫茶店というものに行くと、なぜか落ち着くが、僕はそこに居てよい、という居場所をコーヒーマグを机に置くというので周囲に認めさせていることによるものなのか、いや、単に椅子と机がある、そのことによるものなのか、というより、自分が、客という役割は持っているが、持っているというか、一般的な見方によればそういうことになる自分が、周囲から見て、そのひとり、として扱われること、それでいて、自分は自分で一人の人間、として、いわばただの人間としてそこにいることができる、から居心地がいいのか、わからない

が、とにかく本を読むために喫茶店に入り、ついでに手帳を開いて、これからのカレンダーに気になる展示やイベントやらライブやら、を書き込んでいき、それによって行くライブが決まり、は!これは、!ある種のコーリングか…と思わなくもない。コーリング、天命、保坂和志もその題で小説を書いていて、妙にその題が頭に残る。別に妙ではなく、ときどきそれを耳にするから、かもしれない。

で、本を読んでいて、『ケアと編集』、白石正明。完全にゾーンに入っている、俺ではなく、本自体が、だ。ゾーンというか、あくまで僕との間の話であって、僕との合致、?私の今まで、と読んでいる本の内容がカチっとハマる、そういう瞬間があり、ハッとしながら、姿勢を正して、続きを読んでいた。まさか、ケアとジンメルがつながるとは思いもしなかった。この本をもってゼミの先生と話したい気持ちになる。

 

チップスターの蓋で切った親指はそこそこ痛くて、水やらが染みる。が、それをもって私はそこに私がいることが、わかる。痛みをそこに感じるから、そこに指があることを意識する、というのから、そういうことは確かにある、とまたもや思う。

 

ベローチェのトイレでブログになんかを書こうと思ったが忘れた。さっきの指の話からなにかがつながるような気がした、が、思い出せない。

切った直後は今よりもまぁまぁ痛く、その痛みの中で思うことを書こうとしても、今の私にその痛みがない以上、それは書けない、ということになるのか?単に記憶の上で覚えていられなかった、というそれだけのような気もするが、覚えている、ということが確実にその時の思いを書くことに直結するか、というとそうでもないような気もする。

 

なにかとなにかをつなぐこと、頭の中で妄想的になにかの連想を無数に行いながら、目の前の物事や自分にとってエッセンシャルなことをべつのなにかとつなぐ、ということができるとき、私は明らかに、元気、なのだと感じるが、

その精神の状態のことについては置いておいて、そのこと、つまりはなにかをつなぐ、つないで考えるということについて、最近聞きに行った保坂和志と富田ララフネのトークショーを思いだしたり、図書館で読んだ今福龍太の名前と島の話、を思ったりしていて、それに励まされてもいる。自分が思っているよりもよりさらに激しくそれを展開してもよいのだ、ということとそれに自分を乗せていってもいい、いわばサーフィン、?であって、そういう波が来たから、それに乗るのである、という話はさっきのケアと編集に感動したからそのまま書くだけで、そういうなにかをつなぐこと、頭の中にしかないそのつながりは誰かにとっては突飛なものかもしれないが、それとこれをつなぐこと、はたしかに今の自分が行っていることであり、それを単なる偶然として考えるよりも、どこかに必然性・運命・絶対的な確信と希望をそこに見出してもよい、見出してさらに思考を先につなぐのだ、ということで。

 

マルクスを読みたい気持ちがあるが、新書でちょろっと触れたことがあるのだった。それでも確かに感動した記憶があるが、それは冬に取った集中講義の内容だったか、?忘れてしまった。しかし、なにかを読む、ということに感動があるのは間違いなく、

それはさっきの本でも感じたし、

今日読んだ別の本、『戦後の漫画思想』:鶴見俊介、『言葉の展望台』:三木那由他、『物語は人生を救うのか』千野帽子、でも感じることであって、一番最初の本しかたいして読んでいないが、最後の千野さんの本で、冒頭のはじめに、から保坂和志が登場し、またもやコーリング…!と思わないでもなく、それで満足して本を閉じました。

 

映画は、『ホットギミック ガールミーツボーイ』、『万事快調〈オールグリーンズ〉』、『ヤンヤン 夏の思い出』、『ひゃくえむ。』、『愚か者の身分』を順不同、で見ていて、どれも、よかったですね。!とっても。

それぞれに思うことやら、感じたことが確かにあって、ははーと思いながらも、それを書き留めておかねば!と思わないのが少し不思議で、かつての自分ならそれを焦りながら実行していたような気がするが、別に今はそうでもない、と思う、のはそんなに言葉を頼っていないからなのか?言葉で自分の思いや思考を完全に書けると思えないように感じてきた?のか?いや、別にもともとそうおもってないけど、それに距離や隔たりを感じるようになってきた?のか?、根本書く、書いておくということにそんなに楽しさを見出せなくなってきたのか?、いや、!因果オーバーキルのあとがきでちょこちょこ小出しにしている、からでないのか?単純に…。

 

そろそろ満足してきたころですが、

in the blue shirtのアリムラが書いているブログ?というか、メルマガ、が恐ろしいくらいの頻度、?で届いているような気がして、いつから始まったのか覚えていないが、今日来たのが41、のナンバリングが付いていて、41⁉と思った。内容というか文量もそれなりにあって、ははー、と思う。どういう生活であれを書いていて、生活で、というか日常の場面のどこであれを書いているのだ?と思う、それとモチベーション?

私が書きたいときに書く!ないしは隔週で好きなことを好きな分量で書くことを依頼されているので、書く、というのとは違うものであるのはその通りだろうし、なにか出したいもの、最初に文フリで出すための原稿だ、という前置きを置いて始まっていたが、それなのだとして、自分で連載を作る、ということが果たしてできるのか?意外と初めてみればはじまるのか…?と思わないこともない、なにかテーマ、なりを設けるか否か、それがあるかどうか、の方が書くことのハードルをあげるものになるのかもしれないと思えてきた。

 

さて、映画、ぼやぼやしながら見ていた『プール』が、終わり、途中に大事そうな、というか僕とのリンクを感じる場面があったが、特にそれ以上はなく、以上、というのはそれがなにか感慨につながる、ということはなく、これくらいがちょうどいいか、これくらいというのはながらで見るのが、ちょうどいいか、という感じでしたが、それはながらで観た人による感想で、真剣に見た人は真剣に見た人なりの感想になるのであり、それはどっちも欲張って取れるものではなく、特に映画、というものが初めて見るときを重視するメディアである以上、と私が思っているだけですが、そうなのだとして、そのどちらか、というかどれか、にならざるを得ないものであって、見てる時間になにかを思う、そのことをも映画鑑賞に含めるとするなら、それはどちらが、と言う話にはならんのではないか。

映画にも『読んだことのない本について堂々と語る方法』で得られた読書に対する心もち、をもって見ることができたら、より映画を見ることのハードルが下がるだろうと思う。すべては気持ち次第なのかもしれない。

牛がかわいいのは白黒だからなのか?

どこからどう、書き始めたらよいのかわからない

ということから書き始めることができる、ということ

 

エッセイというものやらなど、の連載を頼まれている人が、書き始められないことや、書くことがないということ、締め切りが迫っていること、などを書くこと、として書き始めることは実際のところ、実際のところ?、かなりあるのではないか、と思う

詳しくは知らない、

でもこれが、何千年前の、書く、という行為自体にかなり特権的な位置づけがなされているときに起きていたら、少し、というかかなり面白いと思う、李白とかさ、いや、李白はちょっと最近過ぎるか、マルクス・アウレリウス・アントニヌスとか、司馬遷とか、孔子、とかが書くことがない、って言い始めていたらおもしろい、

あれよ、書くこと

 編年体を編み出しておきながら、この年にはなにもなかった、とか書いていたら、おもしろい、読める人さえ限られた世界での話なのに、なあ

 

それでいて、こうして書くことそれ自体がそもそも、そこに媒体があることや、生み出す環境にあることに起因していて、さらにはそれを読むこと、ということもまた、私がこれを発信することによってしか、ほかの人にさらされることのないということ、もなんだもなぁ、という気持ちにならないこともない。

 

 なんだもなぁ、は三木聡作品のふせえりの、セリフです、あの微妙にくぐもった顔で言うそれです

 

ココアは全く売ってないのな、自販機にな、あとスーパーにすらない、あったかーいのコーナーね、少ないですよね、ラインナップね、

でもです、でも、最近できた、80円!の飲み物が売っている最寄りの自販機、ベンダーにはあったかーいのココアが売っていて、すごいじゃん、って言った。

 

渋谷の中央図書館、素敵なのですが、そこでぶらついたときに、哲学の棚、西研と川村易の本で、『哲学のモノサシ』という本があって、驚いた。僕の書いたものに、というか、考えていたことに近い、いや、ことばだけなのかもしれない、というか、その、ものさし=モノサシ、という言葉だけなのだけれども、それが一致していて、驚いた。

中身は、いや、中身もほとんど一致しているのだった。今一度読み返したが、同じようなことを発想していて、と思うがしかし、これ、というものがと、私が書いたそれ、との一致は言わば必然的ともいえるようにも思えるのであって、というのは、私のそれ、は誰かの受け売りの過程の一形態のように感じてしまう、というか、やっぱり、ことばというものそれ自体が、限られたもの、であることを思うと、と、そこまで思わないまでにしても、やっぱり似通るもの、参照元がどこかに私の中、ほか、書いている人の中に共通するものとしてあるのかもしれないと思ってしまう。というのは、ある時代に生きていることの所以なのかもしれない、

が、それではなくて、というのはそういう形式的な、表現一般の話をしたかったわけではなく、フツ―に、中身の話と、その言葉の一致、について話したいんだった。

 

の前に、夜、散歩に出て、カメラとヘッドホンだけつけてスーパーまで行った。別に目的地がスーパーだったわけではないが、とりあえず川にでも行こうと出て、ココアを買おうとして、自販機を逐一見て回ったが、特になく、スーパーに行ったら確実か、と思ったから行ったのだったが、スーパーにはなかった。

代わりに、入ってすぐ左側の焼き芋、のコーナーをチラ見して、脳内でキープ、していたその40パーセント引きの焼き芋、の隣には半額の焼き芋があって、それを買うことにした。

レジに行くときに、自分と店員のポジション、ポジショニング、関係というか、店員側の気持ちを思うことがあり、それは自分がそうするときの相手のあり方を自分はどう思っているか、を自分に向ける、ということであって、これは、つまり、えっと、

自分が店員側、としてレジを打つ時に目の前に対峙する客、のあり方を、客側でありながら想像する、ということで、そうしたら、どうなるか、というのは態度としてどうなるかというと、少しハキハキする。少しだけ、です。笑顔はありません、ごめんね。

でも、そうなのだ。客というのは基本的に何も知らない、無垢なのだ、というか、素。素でいて、あまり気張ってない。当然、私も客なら気張らない。そう、気張れないのであって、別に気張りたくないわけではない。気張る、というか、必要以上に気を配る、というか。店員側のその気の配り方を、客側はできない、のである。

で、何も知らない人に対しては、なにかしらの要求やお願いを聞いてもらう必要があって、そこで初めてコミュニケーションが生まれる、のであり、その気、の違いから、当然ながら店員側の徒労が大きく、でもそれはそれで仕方ない、と思う。そうなんだもん、だって。仕方ない、というか、店員側が情報を知りすぎている、上に、その場にいすぎて感覚が麻痺しているんだと思う、この場所に何かがあることがどうしてわからないのか、そういう風な注意書きがあって、それを守れないというのは、なんなのだ、と思っても、それはそういうものなのであって、店員と客という関係の差、その場、への慣れの度合いによって、それはある程度、仕方がないものなのだ、と思えてきて、そうなら、たくさん話して正解、情報が多い側から少ない側へ移すこと、は、必要である。

と思うのと同時に、別にこれは店員と客の話に限らんのでもないのか、と思わなくもない。コミュニケーションというものそれ自体、というか、人と人、というものがある程度の関係性、というのは、上下などの形式、にとらわれながら、かつ、目の前に居る人とどうその場をやり過ごすのか、ということにあるのではないか、やり過ごす中で、うまいことがちっとはまったり、うまくかみ合わないことがあったりする、のが、コミュニケーションで人と人の間に、それを取り持つものとしての、ことばがあって、

やっぱり同じ言葉でも含意や伝えようとする内容が異なるという場合が往々にして、ある、というか、コミュニケーションが埋めようとしている溝はそこにしかない、ように思えてしまうが、それは短絡的すぎる、と思う、というか、コミュニケーション、という言葉で伝えようとしている意味内容が、が、僕の頭の中にある、それ、と一致しているのかどうか、ということもあって、

それでいて、私は頭の中にある、これ、をコミュニケーションと、いう言葉でもって、表現、伝達できると思って発している訳ですが、その一致、というのはこれまでの環境なり、生きてきたその場、でそのような言葉の使われ方がなされていることを了解して、だから、それが無意識のうちにそういうことになっていて、ということはつまり、多分にその文化の影響下にある、ってか言語と文化の位相の近さ、はそこにこそある、のだ、と思うが、だから、翻訳というものの過程が大事であると同時に、同じ言語の中であってしても、時代状況、育ってきた環境や、性、などによって言葉の使われ方、込められる意味合い、背景にあるもの、といった様々な要素が変わってくるのでは、と思う

 

 メモより引用

絵文字と各々の持っている端末の関係について

絵文字はそれぞれが持っている端末によって表示されるものが異なる…これは言わば自らの持っている色眼鏡と同じことで、それはまさしく現実の世界の見え方と同じようなことになるのでは」だそう

 

師走、であるときに、では、その下ではたらく、弟子たちはなにをしているのだろう

フツーにサボってたりして

サボる、というのはバレないからサボりになる、のかもしれなくて、そうなのだとしたら、サボりの技術の内に、相手をだますようなあり方も含まれているのかもしれない、

 

書いていったことや話したことをどんどんどんどん忘れていって、それでいても、なお書き続けてしまうことや話し続けてしまうことに、私というものや、忘れてはならんことが含まれているのか、?

 

 

そうそう、そうでした、

どこかで働く、ということ、というか、こと会社であったり、組織の中で働く、ということに対する姿勢の位置づけについて、

自分がどのような役割にあって、それをどのくらい全うできるのか、というのは、やっぱり、その仕事によって得られるもの、給料しかり、やりがい、?などにかかってくるのかもしれない、と思う

思いながら、そうなのだとして、それらが、求めるものに応える主体としてのわたし、やあなたが、どれくらいその道のプロ、になれるかどうか、なのではないのか?、組織の中で働く、ということが、である

プロ、というのは、そこで求められているもの、を自分の中にどれくらい取り込むことができるか、で決まる気がしていて、というのは、それを自分で了解しながら、これが確かに仕事を行う上で必要な何かだ、ということを飲み込みながら、でも、それは私の生きること、人生や生活、というものに直接的に必要かどうか、という判断をいったん保留する、それでいて、その要求を飲み込み、そこで責任や役割を全うすること、ができる、というの要件なのではないか?

その場合に、そこによって与えられるもの、と、それ、つまり求められているもの、とのバランス、兼ね合いによって私はそこではたらくかどうか、はたらき続けられるかどうか、が決定するのではないか

、と書いたところで、結局のところは、めんどうでも続けられること、をこそ仕事にするべきなのであって、そこに大義名分的ななにか、や分析のようなもの、は必要ないのかもしれない、

というのは大いに『選ばない仕事選び』に影響されて、いるような気もするし、

さっきのバランス、兼ね合いの話は『うらおもて人生録』に影響されている気もする、

そうなのだ、結局ことばがすごい、ということに落ち着く節がかなりある、

政治、というもののおもしろさ、の根本は、それが暴力ではなく、ことばによって成り立っていることにこそあると思うし、なにごとも、が、人を動かすすべてに、ことばが明らかに関係していて、それによって喜んだりもすれば、悲しくもなるのであり、それらがまた、信用に足るかどうか、というのは、各々の感情や気持ち、というものが私たちには相互にわかりえないということになっていること、にも関係する、

 

たくさんの本を読んだり、読み通せなかったりしていて、それというのは、あるとき、家にある本を図書館で読むみたいにして読み始めたからである、

図書館にいて、気になる本をかたっぱしからとってきて、机に並べ、パラパラながめたり、あるいは表紙と裏表紙だけ見て満足したりという、その感じで家の本もまた読んでみたい、と思って読んでいるが、だからどうということもなく、最近の私はそうだ、というだけ

 

そうだった、というのは今、パソコンの前に座っていて、ディスプレイの下にあるサーフェスの画面にグーグルキープのメモを開きながら、文字を打っていて、メモを見て、書きたいと思っていたことを、書き残したいと思っていたことを、書くということで考えを前に進めたいと思っていたことを、思い出したから、そう書いた

 

 自分が元気だ、と感じる時の脳の動き、働き、回路について

…それは単に、単にというか、何かと何かがつながって思える、そういう回路のつながりの活発度合いというそれなのでないか?

 

というメモで、そうなのだ、そうな気がする、

で、もし仮にそうなのだとして、なにかを見た時の反応の度合いや、会話における聞いたことと、自分の発することの間にあるつながり、のようなものが自分で感じられるかどうか、によって自分は自分の身体や頭の元気さをはかっている、というか、それが元気さ、というものなのでないか、

で、元気さ、というふうなものの言い方をするということが私の生活全般を方向付けているのかもしれない、というのはさっきの言葉の使い方の話に、戻ってしまいそうだが、そういうことは大いにある、ことばを意識的に変更することによって自分自体も変わるということは、たしかにある

元気、というものではなく、体調、なのかもしれなくて、そうなのだとしたら、体調が悪いときにはそういう回路が働きづらい、なのだとしたら、休むしかない、という結論の方向は、体調の良し悪し、という言葉の使い方から導かれるものなのかもしれない、

仮にさっきのまま、つまり元気さという言葉のままでどうしたらよいのか、を考え始めたとしたら、また別の何か結論めいたことを言い出す可能性もある、と同時に、別に元気がないのだとしても、休む、ほかないだろうという結論になっていた可能性もある、が、だからといって、ことばの使い方とそれが導く思考の方向性という話を書かないで済む、ということにはならない、

 

物理的な身体しかり、栄養など、比較的外的なモノ、から精神や思考のパターン、現状や未来についての理解や解釈の仕方、単に悩み、などいった内的なものなどの複雑な絡み合いによってそれ(調子の波)が起きていることを思うと、簡単に片付くものではない、というのは重々承知の上で、

その場に起きているそのことや、に応答する形で日々の時間が流れていってることは否定できず、それというのは、自然と文化、自然と人の関係性にほかならないのかもしれない、

なにかをコントロールしてどうこうできる範囲は思ったよりも限られていて、その中で、つまりはできるときにできることをして、できないときにはできない、ということにすぎないのかもしれない、その中で最善をつくす、という校訓通りの生き方なのかもしれない、5年越しの校訓

で、それ、というのも、言わば、『哲学のモノサシ』のいうものさし、そのものなのか、というつながりが、見えてきた、が、それもまた危険なことと思わなくもない、というのはなにかをつなぐということ、ここで、僕はジンメルの「橋と扉」を思い出すが、思い出してしまったが、というのは、つまり、全てが自分の内で起きていること、にほかならず、それをつなぐこともつながないことも、あらゆる架橋と扉の開閉を私自身が行っていることに、まずは自覚的でないとどこかで、なにか陰謀論めいたようなことにもなりかねないと思うからであって、陰謀論めいた、というのはすべてに因果や、作為が関係しているのだ、ということになりかねないと、そういう風なことにもなっていて、なのだとすると、休む必要性も感じてくる、自分を守るために脳は回路を閉じるのだ

 

『哲学のモノサシ』の挿絵は川村易という人が描いていて、見覚えがあると思ったら、『ジンメル つながりの哲学』とか、その時代のNHKブックスでよく見る絵柄なのだった、それを運命か偶然とするか、というのもまた、私自身のそれ、なのであって、というのはこの前書いた『偶然性と運命』の話に引っ張られている、というか、そこで得た視点、なのかもしれない、

 

その本では、「人間は善悪/美醜/好悪のルール(モノサシ)の束である。」と書かれていて、小林秀雄の言葉やらオウムの例やらを挙げながら、そのことについて説明しているが、共同で作り上げるものさしが、存在するということも書かれていて、はーと思う

 

ある人が読んだりしたものを私はもしかして人生の中で一度も読まずに死んでいくのかもしれないと、ふと電車の中で思った、

読む、に限らず、人生の中で体験、としてもつものを人は本当に共有できないのでは、と思う、読む行為や見る行為によって想起されるものも違えば、それまでの生きてきた環境や文化によって位置づけられる言葉の意味合いや含まれる内容も違うのだとしたら、本当にそうなのではないか?

という風に思えば思うほどに、誰かと一緒にいること、というか、人と人とが生活を共にしたり、生きるということそれ自体の中にそういう、明らかな他、がいることは難しさを伴うとともに、そこにはやはり他者というものがもたらす歓びも、わかりあえないことの悲しさもあるはずだろうと思う、というようなことはこれまでにもどこかで書いていて、書いたし、読んでいて、読んだうえで、私は書いている、という意識がそれほどなく、ということは私の中でこのことはある程度の確信をもってきていて、なのだとすると、これもまた私の中の、ものさしを構成する一つの要素になっているのかもしれない、

ヤングチキン

がうがう

違う、はいはい、と打とうとしたのだった

 

今のキーボードの配列が、本当にたまたま、というか、最初の時点でそう配置したことによって、人がそれに慣れた、ことによってこうしてつかつかと文章が綴れるようになっていて、綴るっていうか打てるようになったことになっていて、それが人のやりやすいやり方、というか、それって実際のところは、というか、本能、というか、なんですか?人間工学?てなんなんだ、学なの?どう?アリストテレス的にはどう?

 

ちがいます、それがそうなんだとして、というのはキーボードやこうして今打っていること、や打てていること、それは機械的な意味としても、今この状況、この時間、この場で打っていること、馬、ではなく、今、バナナがキーボードの隣りにあって、キーボードと言ってもパソコン、パソコンと言ってもサーフェスという、タブレットPCの付属していたキーパッド、磁石でくっつくという仕組みを持っていて、机の支柱も磁石だから、つけられて便利、なそれのとなりにバナナがあって、それはフィリピンから来ていて、でも僕はそれを最寄りの、最寄りなのかはわからないけど、まいばすって気付けば隣りにいる、位の感覚、ペースでできてていくのが都会、というか東京ということになっている、氣もして、ちがう、氣志團の氣、ではなく、気、で、駅から歩いて変える道にあるまいばすけっとで買っていて、それってのはじつはすごいことなのだ、ということをコペルくんはおじさんから学ぶ。そう、何事も人が絡んでいるのがすごいことなのだと思う。東京はつくづく人の街、というか人がたくさん居る、というそのことだけが、良い点でも悪い点でもあって、それが共通の先祖としていろんなよいこともわるいことも、そうともいいきれないことも全部がそこから始まっている。

 

違う、そんなことではなくて、僕が言いたかったのは、キーボードやらなんやらの偶然、というか自分が生まれること、よりも前にそうなっていたこと、や自分の思いや気持ち、したいことやできることの他に渦巻いているなんやらほかのこと、自然、やらが僕には操ることのできないことやらなんやら、の中において、僕はいまここでこうして文字をたくさん並べて、気付けばそれが意味を持っているということになっている。

それもまたつくづくすごいことであって、

記憶、というものを考えたりすると、人に話すことというのが、書くこととどう違うのかとか、話す?歌う?

記録に残ることやモノとして残すことの大切さ、みたいな、ものはかつてよりも自分の意識として薄まっているような気がする。なんでもアーカイブ、、マキシマリス?マキシマリストというのの、半分くらいの構成要素、というか、そこにあった主な思想は、自分の記憶力の欠如を補うもの、としての物理的なモノものなのだったように思えていて、そもそも記憶に対する認識がかつてより柔軟?柔軟というか単に変わったのか?

野矢茂樹が『ここにないもの』で書いていた記憶の認識、記憶、というものがそもそも人と話すことや共有を前提として成り立つ、というような話は自分の中でだいぶ革新的なものだったようで、実際にそれを覚えてもいるし、そうだとするなら、僕が話したことや書いたこと、どこかに残した、という記憶の断片たちは僕の中から失われていって当然なのかもしれない。というのは、僕が覚えているべきことはあなたに渡されたり、そのモノが担っていたりしてくれているから。

 

キーボードとか環境、自然みたいな自分の操れないもの、を操りたい気持ちも、それに振り回されて嫌~って気持ちも当然ありはするが、その中で、自分が生きているということは否定できない。それで、そうだとして、だから、自然に生きよう、自然に、というのは流されるがまま、という意味で、そういうふうに割り切れるかというと、そうでもない。別にそもそも割り切って生きていきたいわけではない。そのときどきのしたいことやらできることがあって、それを選んでいるふうに見えて、選ばされているということも事実であって、それはまたそのときどきと未来の自分がどう感じるか、ということになっている、のか?もしれないね。

今、急に小学校のプールへの道が思い出されて、思い出されて、?思い出して、

校舎が建て替えられて、屋上にプールができて、夏休み、つまりは小学校5年か6年だったわけだけど、その時のなんか、屋上に行く、道、というか階段の窓、窓なんてあったのか?日差し?日差し、っていうほど明るくなくて、なんなら薄暗いくらいの踊り場が、そこにあって、そういうことをふと急に思い出したときに僕が話す相手がいるかどうか、ということと記憶が、実は大きく関係しているのだ、とそういうことになる。

で、別に話したいか?話すというほどのことでもない、というかそこにはなにもないのかもしれなくて、というのは、僕が、今の25歳、つまりは小学校を卒業して、そのときから、もう13年間、倍以上の年月が経って思い出されること、というのは明らかにそこにあったもの、では決してないことは自明のことである。として、そこにあった、というのは、僕が見た景色そのまま、ではないことは確実で、そうなのだとして、僕はいままでのいろんな経験からそういうものに対するイメージや思いを複雑に入れ混じって思い出す、ということになる、ならざるをえないのではないのか。

僕は別に見てもいないし原作も特に読んでいないけど、映画や小説の『夏への扉』のイメージやら絵を思い出しもしたし、大学でなぜか行けた時期の屋上の階段も同時に思い出したりしていて、それとは別にいろんな作品に出てくるような屋上へのイメージ、というもの、特に学校の屋上に至るイメージを並行して思い出すようにしている。

し、それを書くときにも失われているもの、というか書く、ことに伴う取捨選択がそこにはあって、僕がどんなに仔細に描写することができても読む人、それは自分も含めてそこに書かれたものからは、そのものを取り出すようにして、描き切ることはできない。

で、じゃあ写真や絵ならできるのかというとそうでもなくて、という話、は今の、僕はたしかにできるけど、未来の僕がそれをその通りに思うかどうか、わからない、というのはすごいことなのだと思う。

ここでそのこと、いろんな表現活動でもたらされるものが、そこにあるものを完璧には映し出せない、移す?表しきれないという思いを書いておくことが、もし仮に書いたとしたら、それは記録として残ることになって、むしろそれを書いておくことが未来の、未来の?自分の考えることの基本というか、起点になって、新しいことを考え始めるのかもしれない。

で、遠近法、というのはすごいことだ。うろ覚えで書くが、ルネサンスの時期頃に発明!発明されるものなのだ、遠近法という技法は、!それ自体がすごいことであって、というか、それがすごいことの大半を占めるようにも思えてきたが、遠近法によって絵の中に僕達は奥行きを感じるし、それがまるで現実の写象のようにも思わせるが、そんなことはないのではないか、という、そういうことをデイヴィット・ホックニーの展覧会で実践として見た。

ホックニーが描いた絵は現実の見た目とはズレがあるように思えるけども、それこそが事物や風景の真なる?真なるというか、それがそこにあるものなのでないか?、という問いかけなのであって、それはそう、そうなんだよな、と思う。

俺が見えてる世界を俺は俺が書くしかなくて、誰もそれを代弁してはくれない、それは絶望でもあると同時に確実な希望でもあって、そうだとするなら僕はなにかを言葉にせざるをえないし、それが言葉である以上は少なくとも自分にとっては意味が通るものでないと、ということもある。言葉にせざるを得ない、というのは僕にとっての表現というものが、表現というものが自分の、自分にとっての世界の解釈、解釈することがわかること、わかろうとすることの過程や途上にあるもの、あり続けるものであるとするなら、それが終わることはないのではないのか?というか終わらせた瞬間に、終わる。終わるというのは、今の自分にとっての、やるべきことというか、人生の中で自分が少なくとも自分の手でもって、真剣にやるべきだと思っていることが、である。

で、僕に、僕の手になにか表現できるものがなにかあるのか?と言われたら、それは別に何もなくて、ない、というのは言い訳に過ぎないかもしれないが、なぜなら僕はこの場で紙に絵を書くことだってできるし、その場で叫ぶことだって、なんだってできる、し、それが自分の見えていることや、あること、世界に対する理解を示すものだと信じることができるならなんだってできるはずではある。が、なにかを人に話すことや、書くことに共通してある言葉にすることがやっぱり今のところ、自分にゃ唯一できそうな、というか結局のところ、畢竟ですわ、畢竟、それに頼らざるを得ないのでは?とおもう、今はね!

 

主体的に人とつながること、ということはなんだ?マルクスを読めってことになるのか?、

僕がお金を目的として、はたらいていないときに誰かと接するときの自分、というものの元気がどこから湧いてきていて、それでないとき、というのはお金が少なからず目的に、誰かと接するときに、自分がそこにいなくなる感覚というのは、なんなんだろう。

目的、というふうにサラッとかけてしまったこと、それ自体に、なんだか倫理的な善悪を感じてしまう、という気持ちさえもなんなんだ?と思う。そこになにかしらの価値づけをしてしまうことが、時代の精神性と言えるのか?で、?ウェーバーを読む。

主体的というか、活動的?

いや、それはコミュニケーション的に考えるなら相手がいて、成り立つものなのであって、僕一人で完結してるものではない。と考えることができるなら、相手のまなざしや態度を含めたものとしても考えることができるとも思うし、それ、というのは働くことについての両者の価値付けや位置、状況やそれぞれの思いが錯綜する中において、起きている結果、見えたものや僕の姿勢を、僕が第三者的に眺めるようにして考えていることに違いなく、どの側面を重視するかによって見えてくるものは当然異なる、というのは明らかなのだが、これらなにかを考えること、今の自分の状況を、ふと気付くと知らない誰か、特定の誰かというわけでもなく、顔のない誰かの人生と比較して、むなしく?なったりしなくもなくて、それは絶対的に必要のないことだと言い切ってしまっていい。というのは、そこには誰もいないのであって、というか、脳の機構としてそうあるべき、というのはそういうふうな冷却、冷まし方をせにゃならん、防衛本能的に、という説明はあまり採用したくない。たしかにそうだとして、だからなんなのか?と思う。人の行動や生活に関することについて、本能だから仕方がない、というのは説明としては理解できても、納得はできない。できないというか、したくない、だけだが。

したくないのは、仕方ないという結論の部分に向かっているのかもしれなくて、尻切れとんぼっぽい、ぶつぎりの終わり方をされるとかなしくなる。私とあなたがそうだと思うとして、そう結論付けた先に、それでもそこから考えられること、考えられるというか、それが本能や人、という種に結びつけられた思考の様式のようなものだとしても、そこになにか別の、別でなくともなにか他の理由があるか?ないのか?をこそ話したい、とつくづく思っていまいがちで、それはそれでよくない癖、質(たち)(←『転々』にでてくる、「そういう、たち」ってこれであってるのか?)なのかもしれない。

 

バナナを食べて、歯を磨いて寝る。

寝て起きたらヨーグルトと、またバナナを食べて、歩いて駅まで行って、昨日もあった職場の上長にあって、おはようございます。昨日も会ったなー、家族でもないのに、昨日っていうか、10時間前とかなんですけど。特にそこには何もありませんよ。何も、というのは感情的に、です。昨日も会ったのに!今日も会ってる!!おもしろい、に似た感情はあります。これって変、ちょっと可笑しいことなんでないのか?へへ

へへ

南風

こんにゃわ~

白昼堂々書いている、久しぶりだな~

暑いわね~

しかし、今もまた氷河期、間氷期ではあるもののの

 

クラブに行って帰って寝たあとは首が痛い

ことになっていて、

という書き方になる、のは自然と、という感じに近いからであって、

クラブで目を瞑ってぐらぐら、ゆらゆら?、首がすわらない感じになるので、という書き方もまた、自然と、自分の意識するところ、こうしたいと思ってする動きではないという感じなので、そうなるのだが、

しかし、フロアでたばこを吸うのは危ないと思う

しかし、かっこいいんだ!これが!、という気持ち、つまり、たばこを持ってゆらゆら音楽を聞いている自分が、かっこいい!というその気持ちの現れがそこには見られて、なんだか、かわいくもあった、しかし、周りのみんなからは明らかに、文字通り、煙たがられていて、なんだかなぁと思う

そんでいて、自分がちょっとたばこ臭い気がする

 

匂い、鼻があまり効かないので、自信をもって、?人と近づけない節、あるとおもいますね、

匂い、ニオイ、臭い、かなり全部が別のベクトルにあって、すごい、別のベクトルって/言葉足らずなー、けど、それが自分の中で、中?中なの?中…?中って、いうか、ぱっとそれが最初に出てくるときに、これが書くとき、と話すときの技法のあり方としてどう違うのだろうと思う

で、書くことの哲学?なんだっけ?佐々木敦が最近出した新書をパラパラめくっていたら、新宿の紀伊国屋、これはいらない情報か?いるかいらないか、はいつの誰が決めるのか?

読んでいたら、節々?というか、ちょこちょこ保坂和志が出てきていて、文脈的には考えることと書くことの合一、というか、それを一致させることがどうの、というような内容だった、気がする、で

書きあぐねている人のための小説入門、、かきあぐと略すらしい、が家の中から、発掘されて、表紙しか見ていないが、ぽわっとした気がして、読み返したいなーと思いながら、ムーミンとかちくまプリマーとか、読んでいる

100頁、なんで、これでページとよむのか、?謎でないですか?それくらい、💯わはは

💯ページくらいはさくっと、というか、読むブーストがかかって読めるけれども、そこから先はちょっと気合いがいるなぁ~と思う

働いているとなぜ本が読めなくなるのか、半身の話の出典が、上野千鶴子?の100分de名著、NHKのフェミニズム特集から、来ているという話を読んだ、今日

で、それもどこかの古本屋、たしか入谷のドリスだったと思うけど、そこで、買っていて、いや、浅草橋の古本屋、だったかもしれない、名前は忘れた、そういうディテール、みたいなものは端折っていいのか、端折るほうがいいのか、それは、そういう思考は聞くとき、つまり話し言葉の作法、セオリーに近いのでないのか?書いた言葉はそこにとどまっていて、たしかに読みやすさ、読みづらさのようなものがあるのは確かだが、話すそれや聞くそれ、よりも振り返りやすい、振り返る、正確には読み返す、ことが容易で、それはとても素敵なこと、素敵ってか利点と思う、

 

半身で働くこと、というか、働くということについてぼやぼや考えたりしていて、しかし、かといって本を読んでいるかというとそうでもなく、読んでいて覚えているのは、鷲田清一の労働論、タイトルも定かではないが、サブタイトルは、労働vs.余暇論を超えてみたいな感じだったと思う、割とそこに引っ張られて、そこ、というのは内容如何よりも、サブタイトル自体にだが、そう!割とそうなのではないか?と思う、

労働、というものが余暇と対峙・対立するものとして考えられ始めたのがここ数十年、という話をすると、まさしく私はこの時代にしか生きていないのだ!と思うけども、それが直接的な生活の変化をもたらすほどの、救い、あまり強そうな言葉は使いたくない、けども、救いみたいなものになるか、と言われるとそうでもないと思う、そこに生きているのは確かなので、思いはいつ、どこにでも馳せることができるが、生活はそこにはなく、自分の生きている場も時も結局はそこにしかなく、そこで、社会といかに接合しながら自分を生きるか、しかないのでは?とつくづく思って、そこでいつも、まぁ寝るか、と思って、寝ているのが常、であるような

で、労働と余暇、というか、労働と生きることそれ自体がかなり地続きにあるのは、その通りで、だから、今の余暇時間の捉え方、ライフワークバランス、というようなもの自体にあまり馴染みが、馴染みがないというのは違うだろうが、単に働いていないだけであって、とついつい言ってしまうが、それは間違っていて、働いている、社会に生きているし

馴染みがないというのではなく、その2つはそんなに明確に分けられるものなのだろうか、と思ってならない

そう!そうなのだった、本の中では、別に鷲田本人による発見ではないだろうが、構造上、資本主義の中ではお金を生み出さねばならない、生むというか回し続けなければ成り立たないのであって、そうだとすると、お金を生んではそれを使う、というサイクルを求められるのであって、それを担うのは働いてもいる人、なのであって、というところ、そうだよねぇ~、そういう文脈で余暇にも効率が、つまりはお金、というものがまとわりついてくるのだった

 

ジンメルから僕が学んだことは結局のところ、ものごとには常に両面、良い面も悪い面もあるのだ、ということなんでないのか、積極的と消極的

 

で、責任の話、バイトは確かに責任がない、で、ないということは、反面、自由もやりがいもそこにはなくなるのであって、おもしろくない、という結論の話をうだうだしていたら、友達に今更そんなことを気付いたの?って言われて悲しくもなったが、それは、そう言われて悲しむのは僕がそれだけその人のことを傷つけてきたからなのかもしれなくて、明らかに対峙する他人は自分のことを反射している、つまりは鏡というようなもので、といった瞬間にそれがあぁ、そういう話ね、つまり、よくある話だね、というふうに思われてしまうこと、思ってしまうことはよくあって、それは、それ自体は仕方のないことなのかもしれないが、ある程度は、、それでも、そこには、その人が言ったその言葉にはそういう慣用句的に使われる言葉、ただ上から引き継いだに過ぎない、実感の伴わない、リアリティのないものとは違う質感を伴っているはずであって、それは言葉それ自体だけにはないなにかが宿っているというふうにも考えられるのでないか?、

車輪の再発明、というような話は結局のところ、学問的にはありえる、ありえるというか、それが一つの定型に収まるようなものの場合はありうる、完全な一致がありうると思えるが、こと生の実感や世界について、のようなものを想定するときには他の人との完全な一致はありえないのではないのか?と思う、それは当然、言葉という定型のものに収めようとするからそういうふうに見えることもある、だろうが、そこに至る過程は当然異なるはずであって、さらには至った結論も、言葉で表そうとするがゆえに歪むものもあるのであって、それが慣用句やことわざのようなもの、に近しいと勘違いさせるのではないか?それでいくと真理というものは各々が心に持つものであって、万人に共有できるものには限界があるということになるのでは?

自分が自分でもってして真理に近づくしかないのであって、その手段、というか考えることの道具に言葉、があるが、それは単なる一つのツールに過ぎず、それだけが私に使える道具というわけではないことは忘れちゃならんと思う

 

亀は意外と速く泳ぐ、をリバイバルで見ていて、衣装がおしゃれだなーと思う、

三木聡は確かに20年前とほとんど変わらない見た目で、大概のことをしょうもないとおもって、いるような様子だったが、それはしょうもないから価値がないのではなく、むしろ逆で、しょうもなさを愛していて、俺もまたその一人だと思った

亀、は見返してみるとかなり良い映画で、それでかつて初めてみたときの感想と同じところもあれば、違うものもあって、ちがうというか発見!もあって、良かったと思う

クジャクがクジャクなりの悩み方をしているのも、というのはスズメの生き方をクジャク自身が羨む、スズメの視点でしか描かれていなかった物語があそこで、入れ替わる可能性、というか想像の可能性を開いていくのが、良かったと思うが、それは僕がどちらかというとクジャクの悩みに少しでも共感できるからなのかもしれなくて、

スズメの存在がクジャクを肯定していたのも確かなのであって、というのはお互いがお互いを支えていたし、そこには交互に行き交うまなざしがあり、それをこそが一緒に生きるということなのかもしれない

で、そういう解釈や考察みたいなものを三木聡は拒むかもしれない、拒むというか、別にそこまで描くつもりもそこにそういう解釈を持ち込ませる余地も特にはないと言うのかもしれないが、これまでの生活や実感からそういう解釈をするのは誰でもなく僕自身なのであって、それは誰にも止められるものでもない、

クジャクはクジャクなりの生き方があり、そこにスズメが隣りにいた、ということなのであって、それは逆転しない、誰かのために生きるのではなく、自分のために生きるというふうにも言えるのだろうが、それもまたやっぱり他の人にジャッジされるものでも、できるものでもないと思う、スズメがクジャクを意識しながら生きていた、としてもそこにあるのはやっぱりスズメの人生なのであって、クジャクがいたからどうこうなることは本当のところで言えば、ない、はずなのだと思う、それはクジャクのせいで私の人生が、と語ったところでそこにあるのはスズメが歩んできた今までの人生があるのみであって、そこには誰にも介入できない部分が少なからずあるはずなのだと思う

で、生きるというのはいわばそういうことで、自分なりの責任で生きることなのでは?と思う、たしかに人は1人では生きられず、常に誰かに支えられながら、また自分も誰かを支えながら生きているが、究極的には、最終的には1人の人間として生きることに責任をもてる、というかそこに自由をもってして、世界と渡り合うことができるのは自分しかおらず、どこかに責任転嫁しようが、筋が通るものとは思えない、と今は思う

が、これ自体を普遍的な、つまり、誰しもがそうだ、とは言えない、というのもまたその通りで、ここまででそう思えてきたのは自分であり、他の人がどのような状況にあり、環境を過ごしてきたのか、は千差万別でそれを誰かに強いることも説得することもできないし、するべきではないが、一つの考えるスタンスとして今の自分はそう思う、という

僕は僕の立場で人に何かをさせることも勧めることもできるが、

いや、そこまで書いて、だから思考を放棄する、つまりその人が言ってほしいことを言う、のでも、僕がそう思うからそうさせる、のでもない中間をこそがあるのだとおもえてきた、その人のことを思って私はその人に向かって話すことができるし、言える言葉があるのだ

 

ダメジン、という三木聡が最初に作った映画の感想を読んでいたら、まぁまぁ良いことを言っていて、良いというか、わかるなーと言うことを言っていて、過去の自分が書いたので、割と当然、とも思うが、

別に引用するほどでも、引用してなにかを言う気持ちもそんなにはないので、リンクだけ貼っておきます

ダメジンのぱたんぐのネタバレレビュー・ 内容・結末 | Filmarks映画

ネタバレとしておきながら、ほとんど内容への言及はない、かつてのネタバレを避ける姿勢の表れであります

 

で、つくづく時代を生きているということを実感しながら生きているわけですが、自分の思考のどこからがそれなのか、それ、というのはそういう時代の流れの中にあるものなのか、というのは言ったらあらゆるものすべてがそうなのかもしれないが、その中でも自分が大事、と思うものはどこか時代を超えるもの、と思ってしまう、思ってしまう、というか、それこそが真理の一つの必要条件なのでは、とも思うが、人からうらやまれる、というものが果たしてどれくらい大事ですごいことなのだろうか、と思う

つくづくどうでもいいと思いながらも、ふとするとそういうものに囚われているのか?と思うこともあり、その度に軌道修正しながら生活をしているが、これにも、これ、というのは人からの羨望というもの自体にも両面、積極的な面と消極的な面があるのだろう、で、それもまた、それというのはそういう一旦の二分のプロセスもどちらかというと思考の技法に近しいもので、そのような見方もものごとを分析のプロセスの中に組み込むことに等しく、それをまるっと理解するには、自分が自ら経験すること、しかないのではないか?とも思う

 

 

たまに

おはぎ食べてるおはぎ

てづくりのおはぎ、21時のスーパーに3割引きで売ってた山積み、とまではいわない。山ではなかった、おはぎ山、ギリないね、ないよね

2個入りのおはぎが、キーボードの前を陣取っていてまま邪魔、自分のせい

そう、部屋ってのはかなりスゴイ、部屋というか、自分の部屋、自由度がかなり高い、

なんでも、実は結構なモノを自分好みに変えることができる、DIYへの道がそこには開かれていて、そういう風なものの考え方の根、にはいつか買った、あれは、コミティア150だったか?すこしてつだったのだったが、詳しくは書かない。で、そのときに買ったZINE、すごい、2個目のサジェストがイタリック表記なことがあるか?AA、あ、全部そうなんだ、ローマ字?アルファベット?、これって正確に言うにはなんて言うの?これってあれです、英語で使ってる文字体系の、それら、の文字それ自体のことですけど、ヒンディー語で言うところのデーヴァナーガリー文字、というその部分、何て呼ぶの?、これについては調べ方すらよくわからない、あれか、言語に詳しい人に聞けば一発なのか?、

一発、あります、詳しい人にものを聞くと、一発で答えが返ってくる、というそれ、

いや、今なら別にあれなのか?会話みたいにして聞くように、でもAI、!?あれ?なんで?なんでイタリックじゃないわけ??きまぐれなの?というか、単にフォントがちがうの?英語、ではなく、ではない訳ではないのかもしれないが、言えないけどその文字とこのこれ、というのは?

 

以下、書くことのメモ

 

 

よつばと!と季節の記憶、保坂和志の話

誰も舐めてない、保坂和志を読むと元気がでる、これは副次的なもので、単に面白い、から読む

 

おもしろさ、にはなにかことば、数、量に還元できないものがある、

ゲームの純たるおもしろさについて、塊魂

サークルの活動を金、に変えてしまう、ような思考法について

 

作家のトークイベントについて備忘録的に

保坂×佐内正文、保坂×坂口恭平、滝口×柴崎

ただし、書いて覚えている内容は一部、にすぎない上に、僕の記憶はそこにはもうない、確実に

もう一度見返すためにリマインドをかけること

 

ライブおよびYくんがラジオを聞いてくれていることの感動について

 

 

 

 

 

 

 

↑一か月前くらいにこれを書いて、放置、のち、今(2025年4月19日)

 

イタリックの件、自分で読んでいても何を書いているかわからない、というのは、サジェスト、という言葉の意味がいまいち伝わりきっていない、ことにあると思う

サジェストが、どこに出てくるものだったのか、がわからない

おそらく、ZINEと打った時の表記のことについての、サジェスト、なのだろうが、一発でそれを読み取れる人はいないのではないか、というか、書いた本人でさえわかっていないもの、をわかる人って、と思ってしまうけど、それとこれとは別、というか、書いた人、というか、なにかを世に出した人、世に出す、というのは、伝える意図を持っているかどうかに問わず、それを受け取る側の人がいて、というものについて、自分、つまり書き手や語り手、描き手、広く表現者自身の意図や、伝えたいこと、というものが表現が宿っているか、伝わる、のかどうかは全く別の話なんだと思う

ぼくはいつか、短歌を詠み合う会、にいつかおためしで参加して、作者の意図、というかその歌に書いてあることから離れた、僕の解釈でその歌を良いと思ったけど、そのことは別にとがめられることでもなんでもなく、書き手を離れた作品がもつもの、や連想されることを読んでいる僕がどのように思おうが自由

で、

 

暑い、夏のような日

帽子をかぶっていると蒸し暑い、蒸、なのか?は知らないけど、直接風が通らないので、あつい

ロフトがある部屋、というか、僕の部屋は方角、ほかその他の影響で暑い、夏かと思う、室温が30度を超えている、今日も

外に居てもあつい、

 

夏になると見る映画、があって、『プールサイド・デイズ』、本当に良い映画、なのですが、僕は今日、そのことをうっすら思い出して、うっすらというほどでもなかったか

暑いから、というのもあるけど

僕が今日、たまたま出くわした、今日だけではないけども、居たその場にあのプールと同じ空気感を感じていたから、だと思うのだけど

それとは別で、別というほどでもないけど、このまま本編、本編というか話の本筋がプールサイド・デイズと今日のその場、の話に移るとそのまま忘れてしまいそうなので、備忘録的に書く、書いておく、けども

自分とは年の離れた人とこれまたたまたまいっしょに10分くらい歩いて帰ることになって、その時、当然話して帰る、帰ったわけですが、

その人はなにかの事故?かなにかで半身不随になる前に同じ場、というか、自分と同じところで働いていたので、その場にいた、らしいのだけれども

自分の父親と同じ年齢くらいであることがわかって、そのあとに自分に息子がいたら同じくらいだったかもなと言われて、そうですか、とぼくは返していて、

で、車椅子に乗って、右半身だけを使って、つまりは、右手で車椅子の車輪の外側の輪、を回していて、右足でも地面を蹴って進んでいて、僕は車いすを押した方がいいのかと思って、最初になにか手伝えることはありますか、というか、そういう意図をもってそうやって言ったわけだったが、その言い方、もよく考えたら失礼なのかもしれなかった、とも思うし、そういう意図が相手に伝わっているかはわからないままだった。のだが、結局最後まで車いすをそうやって押す隣を歩いて話して帰った。思うと、その人が見てきた景色を僕は単に想像することしかできない、という風にも書ける、が、もっと知れる、話も聞けるし、どのようだったか、を写真で見ることもできる、実際にその場にいることができないというだけなのであって、それだからどう、ということは別にない。?いま俺はなにか意味のあることを書いていたか?

で、その人もその人で、同じ場、にいて、場、というのはコミュニティ、とも言えるけど、ここでは、場、という。そこに含まれているニュアンスの違い、ニュアンスの、というか、違いはなんだろう、なんだろうというか、たんに昔気質のそういう感じが、そこにあるから、なのかもしれない、地縁、?いや、単に縁?というかなんというか?

彼はそこで、そこにいることで自分の将来にもきっと役に立つ、役に立つ、という言い方ではなかった、学びがある、という風に言っていた、と思うけど

そこで、人付き合いが学べる、という風な言い方、をしていたはずで、

だから、どう、どうというのは、だから、そこにいた方がいい、という意味合いも含まれているだろうけど、それだけ、というのでもない。これはとっても大切なことで、わりかし最近になって、僕は知ったことなのだった、これ、というのは、誰か、その人、や当然、自分もまた一つの理由、でなにかを選択する、ということがない、ということであって、

つくづく言っているように、誰かの選択、をその当人が語る時、インタビューやほか、自分の自伝、なんかのような場面において、あの時の選択やそもそも自分の過去を振り返る時の在り方、に見える景色、というのは多分にそれ自体が限られた視野、つまり、たった一つの理由や出来事によって、自分の人生というものが決定づけられたように語るが、本当はそんなことは全くない、今ちょうど読んでいる木田元『偶然性と運命』は似たような話が書いている、と思う

運命だ、と感じるときのその思考によって決定づけられる、決定、というか整理される過去があって、自分の記憶や過去が再構築されること、

また、やっぱりジンメルが書いていること、はおもしろい

他者との出会い、邂逅、偶然性に満ちた運命、にも感じるもの、は自分の内面にもある、という風に書いている、以下、きちんと引用しておく

 

自分自身の感情や思考や意欲が出来事となって、主観の中心的な生が、ちょうど外部の出来事と接触するようなかたちでそれらと接触し、それが運命になることもあるのだ。これは、自我そのものが主観と客観とに分かれているからである。「われわれは、われわれ自身に対してさえも一面では受動的であり、この受動性がわれわれの生の中心的な能動性に同化され、しかもこれを規定しつつ、いわばこの能動性の反射を受けて意味あるもの、われわれの生のために目的論的に規定されたものとしてあらわれてくるのである。」

『偶然性と運命』p.124

おもしろすぎるだろ~、目まんまるになった、何かの帰りの千代田線

 

で、本筋

『プールサイド・デイズ』は完全にサム・ロックウェルの映画で、というか、私はああなりたいと強く思うのだった。ああ、というのは、ああいう感じということであって、まんま、つまりあるコミュニティにおける立ち位置、としてああなりたい、のではなくて、最終的な到達点、としてのああ、である。

Filmarksにもまま似たようなことを書いていたはずで、あとで参照しようと思うけども

で、

今日僕がいた、場、というのもままその映画で描かれている、場、の有様と似たようなものがあって、ただし、僕が思ったような、ある種の憧れを抱くような人物はそこにはいなかったわけだが、同じような空気感を感じていて、

というのは、心地よい、のである、場の中にいる人間にとって、その場が、

暖かく映る、ものであって、

あまりに端折りすぎていてなんのことやら…とおもう、が

一旦はそう書いておいて、おいおい説明します

入り組んでいて、というのは映画の話もしながら、いや、映画の話だけすればいいのか

 

映画は、ある少年が主人公で、家庭内に居場所のない自分を避暑地先のあるプールで、自分の居場所を見つける、というような。(以下ネタバレありです。)ざっくりと説明するとそういう話で、サム・ロックウェルはその場におけるなんというか中心人物、場を取りまとめる、取りまとめる、というかいわゆるヒーローとして映される人物であって、これまた松本大洋的な、つまり、その場における役割のまっとう、からヒーローになる、気づけばそうなっているタイプのそれ、であって、そこに私は憧れるような要素が、あるとも思うのだが、

今日の場、で僕がおもったのはその彼、のような存在、人物について、ではなく、その場、自体の話で、

サム・ロックウェルは居場所をそこで見つけた少年に対して、最終的に決別の決断を勧めるのであって、その理由はその場だから、なのだと思う。

その場、と呼んでいるのはサムの職場であるプールのことであって、決別するべきだとするのは、そこで築かれた人間関係やコミュニティ、などもろもろを含んだそれ、なのだが、

その場の内部にいると、その場が温かく感じるものであって、これは逆に言うと冷たく感じる、というものはその人や自分がその場の外部にいる、ということの証なのかもしれない

その場、に対して反発の気持ちがある、どこかでおかしい、くるっている、ような、権力の偏った勾配やそれを使った面白くもないジョークが行き交う空間、というものを感じるうちはまだ外部にいる、のかもしれなくて、かも、と言いながらかなり確信に近いものがあるが、そういう風で、

また、今日、感じたことはそれはかなり内部を強く包み込む一方で、外部をかなりの重さで必要とする、ということであって、外部を意識させる状況を内部に生むこと、感じさせること、がある意味で内部の強度や各々が持つ内部への視線を集中させる。

その内と外、とを分けるものはさまざまなベクトルが存在するであろうが、こと職場、というものにおいては、そこで働く人間がどれくらいその業務や仕事、というものに打ち込めるか、であったり、「有能」な人や、「使える」奴であるどうかにかかっていたりする。それはある意味で理にかなっているのかもしれなくて、職場、というものである以上、そこにそのように居られる人をこそ内部に取り込むのが正しい、正しい、というのは資本主義的に効率が良い、という意味ですが、そういう風なことになっていて、それ自体にはまったく魅力を感じない、魅力を、というか、だからなんなのか、と思うけど、人が人であることにそれは全く関係のないこと、だとおもう。

で、こと家族、や家族…、というくくり方、もまたおかしいと思う、というか、そういう風な言い方、くくり方、がしがらみになる、ということも当然あるのであるとすると、親密圏、という方が正しい、のかもしれないけれど、私が映画を見て、感動する、というものの中に含まれているそういう風なあり方の人間関係には、そういうもの、つまり、誰かがなにかの状況においてよくできるということ、それは能力、というような言い方になるのかもしれない、が、能力というか、一般に「使える」や「有能」という言い方、通常、通常ってなんだ…、いや特殊な状況下における人間関係において、使われることの多い語彙、で表しきれない人間へのまなざしが行きかうとき、それはつまり、その人自身を見ている、ような感覚が見て取ることができるから、感動するのかもしれない、と思う、思えてきた。これはつくづく、そう思う、というか、何度でもそう思うからそう書いている、今は初めてその二つ、がつながったような気がする。二つ、というのは、場、と親密圏、の話のこと。

 

職場、における内部というものにおける人間のヒエラルキーは、おおむね、その人が「使える」かどうか、にかかっているのかもしれなくて、それだけ、というのではないにしろ、それが力学としてはたらいている場、にいる、というのは自分が、そのようにできるかどうか、限られた時間内だとしても振る舞いとしてそれを全うすることができるか、というのを求められる点において、それは相当にしんどいものであろうということがわかってきた。さらにたいへんだ、と思うのはそれがそのようにはたらいていること、というのをある種の茶番、茶番、とまでは言わないまでも、それが単なる職業上、つまりその人の人格とは異なるもの、として考えなくてはならないはず、であるのに、それが直接結びついてしまう場、になりかわることがままある、というのがかなりの場合、しんどい、のでないか。

それは、つまりはできる人だけが楽しい、空間になるのであって、それは別に職場、としてそれで成立するのであれば、別によい、なぜなら程度の差、はあれ職業選択には自由があって、それを様々に選択できる、とされている、から。実際のところはそうでないのかもしれないが。それは今考えたいこととは別なので。

社会として、つまりみんながみんなで生きる場、においてそれがそういう風になると、つまりは、生きることが上手な人だけが生きていて楽しい、でいいわけがなくて、それは絶対にそうだと思う。

 

自立、という言葉はどういう意味なのか

不可能だと思うのですけど、一人で立つって

自立ということばのことを、依存先を増やすことだ、と言っていたのは誰だったか

 

 

何の話がしたいのだったか、メモがありますので、幸い

上のメモから引っ張りますが、

 

「よつばと!と季節の記憶、保坂和志の話

誰も舐めてない、保坂和志を読むと元気がでる、これは副次的なもので、単に面白い、から読む」

そうなのだった、よつばと!の話、最新刊16巻が出たのだった

14巻くらいから、毎巻読み終わるたびに少し泣きそうになっている

よつばと!のなにがよいのか、というか、おませちゃんブラザーズで、よつばと!について語れる人、を募集していて、それに自薦する勇気はなかったが、一番好きな漫画であることはゆるぎなくて、それについて、つまりよつばと!の何が好きなのかについて考えたことがなく、これを機に、これ、というのは、その動画が作られることを機に自分で一度考える必要があると思った

よつばと!に出てくる登場人物は誰もよつばをなめていなくて、それがすごく、良いと思う。なめる、というのは子供だからこれくらいで、みたいな手加減を含むが、そういう人を人としてみないような態度を取ることがなくて、それは、保坂和志『季節の記憶』のクイちゃんに対する周りの大人、の態度、特に美紗ちゃんがそういう感じで、それが良い、と思った

で、保坂和志の話、

の前に、なにか好きなことを語ること、について、

前まで怖気づいて、まさしく怖気づいて、という感じだが、ことばにすることを恐れていた、わけだったが、それはさっき書いたような、人の選択の理由や言葉にすることが生む1つに絞ること、のようなこわさ、に対するものだった。つまり、なにかがこれを理由に好きである、と言ったとき、にそれがその一つに集約されてしまうこと、というか、それ以外が見えなくなることに対するこわさをもっていて、でも、それもまた選択、に対する弁明と同じように一つにはなりえない、ということを身をもって知った、ので、それもそんなにこわくない!こわくないぞ!

 

保坂和志、の小説は読んでいて元気が湧く

それは考えること、自分で考えることの自由を思い起こさせてくれるからなのだと思っていて、思い始めていて、というのは、読んでくれれば一発、とまで言わないまでも、そういう感じなのだ。書いてあることが。単純に読んでいておもしろい、が、それはそこにある、のだと思う。元気が出る。というのは、自分で身の回りのものごとについて考えてよい、ということを、思い起こさせてくれるから。

 

メモの続き

「おもしろさ、にはなにかことば、数、量に還元できないものがある、

ゲームの純たるおもしろさについて、塊魂」

 

ことばにしたわ。ラジオで。いや、全部はできない、という意味で書いたのだろうけど。それはそう、その通り。だから、何かに対してなにがおもしろいの?って聞いて、うまく答えられなくても仕方ない。というか、当然なのです。それはやってみないとわからない、の部類なので、なにかについて、そういう風に聞いて返せないのも返ってこないのも、当たり前なのでした。

ゲーム、はわかりやすくそうで、塊魂、がどうおもしろいか、を言葉では説明しつくしえないし、そこにあるようなプレイ自体の気持ちよさについて、ことばで説明しようが、数や量、つまり、どれくらい売れたかや、どのくらいプレイしたか、というような表し方では語りつくせないものがあるのである。純たるおもしろさ、はプレイする本人にしかわからないのであって、それを外野がどうこうは口出しできない。

で、塊魂の話、ラジオでも話した通り、と言えばその通りだが、

 

グーグルキープに残っていたメモ

「塊魂の感想
シンプルさ:ころがす→くっつく→世界をまきこむ…最終的に星にする
:大きくすること、なること
…見えなくなること…小さいものはどんどん
世界の見え方と、一緒:
点数が出るのは余計」

真ん中あたりのことを言いたかったのだったが、伝わっているのかは謎、いや、聞き返したけどまぁだいたい伝わっていそう、と思う

 


「サークルの活動を金、に変えてしまう、ような思考法について」

これ、そういうことか、おもしろさ、の話につながっているから、改行せずに、というか一行空けずに書いていたのか、

そうなのだった、おもしろさ、というのは金に、つまりは、時給としては換算されないのであって、そういう話をしたかった。

かつてサークルをやめたいという後輩に、サークルの活動がお金にならない、つまり、自分の金銭的な得にならないのにやることに意義を見出せない、、と言われたことがあったが、それにうまく返せず、どうしてか心残り、というか不思議とおぼえていて、それに今なら多少意味のある返答ができそうだと思った、別にその返答をここで書きはしないが。おもしろさ、は数量や金銭的な大小、といったものに直接的に還元できるものではない。

 

「作家のトークイベントについて備忘録的に

保坂×佐内正文、保坂×坂口恭平、滝口×柴崎

ただし、書いて覚えている内容は一部、にすぎない上に、僕の記憶はそこにはもうない、確実に

もう一度見返すためにリマインドをかけること」

 

は~、いったん保留。というか、また今度書きます。

リマインドかけ忘れた、いや、かけていた、けど、視聴期限が過ぎてしまって、本当に見たかった部分が見れなかった。ざんねんです。

 

 

 

おまけ

東京外国語大学出版会と図書館が共同で発行するpieriaという雑誌に、ちいちゃい書評を載せてもらっていて、それの本分と解題?解説をここでしておきます。

 

僕の「橋と扉」

 ロフト付きの6畳のアパートにかれこれ4年住んでいる。ちょっと派手だけど、白い壁と青い屋根が気に入っていた。ギリシャのサントリーニとまでは言わないが、そういう感じ。
 ある日、バイトから帰ってくると青い屋根が茶色に変わっていた。外壁の塗装をしていることは知っていたが、色が変わるなんて聞いていない。塗り直され真っ白になった壁と対照的に、薄汚れたままの扉を開けて入る自分の部屋の中は、ペンキのにおいがする。
 渋谷のライブハウスからの帰り道、電車賃の節約もかねて、隣駅まで歩く。途中、原宿駅のすぐ近くにかかる水無橋を通る。橋の下には川は流れてなくて、代わりに電車が行きかっていた。22時のその橋の上には僕しかいなくて、見下ろした先の山手線には人がたくさん乗っていて、誰も僕を見ていない、でもそこには人がたしかにいる。自分以外の他者が。
 色んな日常の中で、私は他者とかかわりながら生きていて、そこでうまくつながることができたりできなかったりする。そういうあわいの中にいて、ふと「自分」というものがわからなくなる。
 そこで他者との関係から自分について考える。 
 個人同士の相互作用によって成立するもの。社会学という学問を始めた一人、ジンメルは社会をこう定義する。社会はあらかじめ存在するのではなく、他者と共同でつくるものである。そこには人と人の関係があって、つながりがある。ぼくはそこに橋をかけたいと思う。あなたのために目の前の扉を開けたいとも。

『pieria【ピエリア】2025年春号 戦争のクロノロジー』p.63

 

メモ

「解題:ジンメルの代表的なエッセイ「橋と扉」から、橋の話と扉の話
また、断片的に、日常のものごとから着想を得て、思想を深めるジンメルに重ねて、最近のできごとから書いてみる
言われたことや、聞いたこと、読んだことなどから直接、自分のなかから、とまでは言えないくらいのことばを借用して使ってみる。、サントリーニ、あわい、
人を、想像させること、、散歩、歩くこと、からの気づきから:あらゆるもの、ことに人がかかわっている、ということ:外壁塗装、も自分の家ではあるが、そこにはいろんな関係先があって、人がどこにも関係している、電車もまなざす私と、まなざされない私がいて、その先には当然人がいる。また私もその一人の主体として、つまり、人を見つめる人として、存在する、相互に関係がある、こと
電車のシーン、情景として、私と電車の中の人、には高低差、つまり橋の上とその下、という上下の関係:形式としての上下関係がそこにはある、ということの示唆
(構想段階では、散歩→暗渠→暗橋:暗渠にかかる橋というものもありかもと思ってた、好きだし、散歩。が、説明に字数がかかりすぎるかも、と思う)
一人称の揺れ:僕、自分、私、ぼく。これ自体がそもそも、自分が悩んできたこと、つまり、自分についてだんだんわからなくなっていく、ということを示しているのかもしれない、と思えてきた
→関係や社会ごとに異なる自分、という可能性
扉を開けることの比喩:自分の部屋の中、プライベート空間としての私の部屋、自分の中に入ってくることを許された他者、入ることにおけるハードル、
部屋⇔橋:どちらもいるのは一人、だが、かかわる人数、は異なる?:ひとり→開かれた空間:社会へ

扉を開けるということ、開くこと…イメージされる扉:片開き、的なイメージの先行
→当時のドイツでは?、両開き?:実際のところ、ジンメルはどのようなイメージをもとに、扉を描いたか
開くこと:下の名前!と一緒で、結構、かなり嬉しいな、という感じ」

 

ジンメルという人が僕の出会い!、これも運命と感じるようなもの、と最近思う、

彼にかなり惹かれているというのは卒論うんぬんでわかる、かもしれないが、

哲学者、社会学者、思想家?ジンメルには代表的なエッセイがあり、そのタイトルが「橋と扉」というもので、人の持つ認知能力について、橋と扉という身近なものから発想を飛ばして、彼なりの解釈をする、という内容の、エッセイである。

彼はそういうエッセイをたくさん残していて、そのどれもがかなり、おもしろい。どれもが、と書いたがそんなによんでない。『ジンメル・コレクション』がおすすめです。読み切ってません。

僕もエッセイ風に書評を書こうとしたのは、エッセイストでもあったジンメルへのリスペクトも込めていて、日常のものや出来事からはじめてみた。で、サントリーニというのは今の家を見繕ってくれた元バイト先の先輩、そのときは不動産屋で働いていた、人が、かつて青かった屋根を見て、言っていて、あわい、というのは大学の後輩の人が、ブログで書いていた、から借りた。 あわい、という言葉自体は『出逢いのあわい』という本、で見ていた、見ていたというか、その本のタイトルが思い浮かぶが、その本は途中で読むのをあきらめた。ただ九鬼周造に関する本で気になってはいる。いつか読む。読むことのハードルが今、過去最高調に下がっている。最高潮に下がっている?しかもハードルが?わかりづらい…。乱読の時代が来ています。で、その人、著者の宮野真生子さんを知ったのはたぶん、共著のある磯野真穂さんから来ていて、彼女の『他者と生きるリスク・病い・死をめぐる人類学』という新書はかなりおもしろかった、!

九鬼周造は偶然性をテーマにしていたのだった、読むしかないっ!いや、というか、偶然性×家族、といういま、僕の中で最もホット、そんなに?かもしれないけど、たまたま新書を読んでいるだけ、なので。ですが、そういうところから手を伸ばす、ほどにハードルは、下がりきっています。

で、書評の話。

 

「電車のシーン、情景として、私と電車の中の人、には高低差、つまり橋の上とその下、という上下の関係:形式としての上下関係がそこにはある、ということの示唆」

シーン、と言っているのが鼻につく、が、言いたいことは本人なので当然わかる。そう!そういうオマージュも入れてみていたりする。誰が気付くのか、というかこれすらもまぁ、事後的に、つまり書いた後にそういう風にも解釈できるか…とおもって書いている気がする。、内容については、ジンメルが重視した社会:相互関係における形式の1つであるところの、上下関係というものへのイメージ的なオマージュがあります、ということです。

 

「一人称の揺れ:僕、自分、私、ぼく。これ自体がそもそも、自分が悩んできたこと、つまり、自分についてだんだんわからなくなっていく、ということを示しているのかもしれない、と思えてきた
→関係や社会ごとに異なる自分、という可能性」

ははーっ!おもしろい~、それはかなりおもしろいですわね~~~

はっはっは。

 

まぁそれくらいです。