どんどこどんどこ
脳内多弁の波が迫ってくる、月に一度
なるようになる、というかなるようにしかならない
みたいなアナロジー的なの、結構、好きなのですわね、
腰が痛くって、この時期によるものなのですか?
というか、サマータイムってなんだ?あとそれと対をなす冬時間ってのもあるのやね、この前新聞読んでて知りました。
あれって時計ごとずらすんだ!ね?知らなんだ
すごいね、それって、みんなでせーので、一時間ずらすって、すごくない?
楽しそう、祭りとかないのかな、みんなで時計を持ち寄って、一時間ずらして、その余剰?あまった時間って言うか、その差でなんか、みんなでポテトとか、さ?つまみながら抽選とかビンゴとかして、お米当てて帰ろうよ
今年の地元の秋祭りで、意気揚々と友達をたくさん誘ってポテトを詰めにいこうとしたのに、売り切れていた、それでそのあとの抽選も、というか、その間に挟まっていた、甥っ子を含めた子どもたちとのかけっことか、その時間、たけちゃんがスマブラでも見せないような顔つきで必死に子どもたちと遊んでいて、それがすごい、良いなと思ったあせだくだった。抽選は、結局俺は当たってないし、けどなんかオールスターみたいな、地元の人たち、かつて、っていう言い方?、私が地元にいた頃にいた人たちがたくさん、わらわらいて、当てていて、景品を、おもしろかったし、あと、友達の弟はでかくなっていた。結局、景品の中にお米があったのか、は覚えていない。僕はお米を当てて帰ると、宣言してはいなかったが、実家ではそれくらいの熱気で親とねこに挨拶をした、つもりだった。
今、深夜の2時にうどんを食べていて、明日の僕、が健康か、どうか、というより、出歩ける、?そんな元気があるかどうかを思い悩んで、髪を切るか、どうか、その予約をしようかどうか悩んでいる。でも、髪は切った方が、良い、スッキリもするし、あと、軽くなるから。
後頭部らへんが引っ張られる感じで痛くなる時が、時たまある、それがなんのせいなのかはわからないけど、メガネのレンズは相当ボロボロで、早く、替えた方がいい。メガネを初めてかけて以来、というよりそれ以前の世界の見え方と以後のそれは全然違うもので、そのどちらがよいわるいという話ではない、のだが、今の状況、つまりはレンズがボロボロであって、見たいものにうっすらもやがかかるような、そんなのは、絶対によくない、
そういう、いつでも行けるが、行くべきタイミングを自分で決めねばならないもの、は往々にして苦手、である。エイヤ!が必要だから、エイヤというときは、日常ではそんなに、ない。ブログを書く、というのもまあまぁエイヤ!である。最中がそこそこ楽しい、気がするのでぎりぎりできる、けど、そうでないものはなかなか手が付かない。
手が付かない?、そんなこと言うか?と思って、調べた。クロームはなんかAIが勝手に引用したような文章を画面のトップに持ってくる、あたかもそれが正解みたいに。知らないけど、それだけを見て、そうかぁと思って、戻って書き進めることにして、いる。
元気になったついで、に昨日?は本屋に行って、いや本当は、銭湯に行こう、とそういう思いで立ち寄った駅に、グーグルマップの行ってみたい、に登録してあった本屋さんが、あったから寄った。古書ドリス、(こういう場面で、さん、と敬称をつけることに、抵抗がある、と言う話をかつて先輩と喋った記憶がある。正確には話したのは、有名人に対して、さん、をつけるかどうかという話。だが、さん、なんて日常で付けないだろう、と思う。さん、と付けることが逆に、そのものとの近しさを表すことになる、気がする、というのはちょっとおかしいように思えて、おもしろい)
相当に良い本屋で、悔しくなった。お金がないのに、こんなに買わざるを得ない、なんてと思って、
そうなんです、古本屋の方が好きなんです私
かつて、新刊書店よりもブックオフの方が好き、と友達に言ったら、
「(私の名前)っぽくないね」と言われ、それなりにかちーんと来た、し、そういうリアクションをしたうえで、どうしてブックオフのほうが?と思ったことがある
それは、結局のところ、新刊書店に置いている本は、別にいつでも買える!からです!
別にいつでも、というのは語弊があると思うのですけども、でもまぁ要するにそのようなことで、つまりは、別にそのタイミングでなくとも、その書名さえ分かれば注文するなり、して買えるよなぁ、どうしても読みたいってんならそこで買いますけども、というそういうスタンスで、ある
のに対して、
古本屋はまぁ、もう打つのだるいから、そのまんま逆、新刊書店のまんま逆
出会ったら買うしかないので、買う、し、あと大体は安い
安さが理由な気もする、上記の問いに答えるなら
で、買ったのは7冊で、手に取った順で
『心がぽかぽかするニュース』
『新しい単位』
穂村弘『よくわからないけど、あきらかにすごい人』
色川武大『百』
『別冊100分de名著 フェミニズム』
『NHK人間大学1998年7~9月 野田昌宏 宇宙を空想してきた人々』
『SFマガジン 1999年12月号』
で、それぞれまぁまぁすでに思い入れ?というか、理由があるけど、買ったことには、そりゃそうか、そうなのか?なんとなく買う、というのも、あるわな
まぁ、どれもおもしろい、と思うんですけど、
『心が―』は2005年くらいのタイトル通りの新聞記事をまとめた文庫で、もうこれが100円の棚にあったその瞬間から、もうあ~散財、と思った
『よくわからないけど―』は大学の行きの電車でちょっと読んでいて、穂村弘といろんな人の対談集だけど、企画を通して憧れの人に会えるってこと!?っていうのが、ざっくりまえがきに書いてあって、そんな人間が俺に、いるのか?と思った、誰だろうigrek-Uさん、とかかなぁ、憧れてギター買ったし。いや今なら保坂和志か?どのみち、会えても別に聞きたいと思うようなことは思いつかない、けど、これは、みんな誰かしらいるのかな?いないのか?
一番最初の対談相手は谷川俊太郎で、詩、ってもしかして、サイコー潮におもしろいのか?、と思ってみたりしていたが、中盤あたりで、小学生数人と詩の話をする機会があって、そこで「詩も草花と同じように読んでほしい」って、いう話をしていて、伝わらないと思っていたら、あとで一人の女の子からその言葉が一番印象に残っているっていう手紙が来て、嬉しかった、という話をしていて、谷川俊太郎ですら!?、と思った
というのは、一人の少女からの手紙、というか言葉で、嬉しくなったり!?すんの!?っていう、いや、そりゃそうだろうけど…ちゃんと人、なのか~というそういう実感、があります、
どっかでやっぱり「すごい人」、は人らしからぬ、っていうか、人を超えたもの、として描いちゃうところが私の中ではあって、推し、とか好きな漫画家、とかそういうもの、を人とは少し位相の違うものとしてしてしまうところがある、ので、
人であることを改めて思い知ると、嬉しくなったり、ちょっと残念だったり、する
会いたい人、いる!松本大洋先生!!会いて~~
真造圭吾のインスタを、先月のBrutusの猫特集の記事で知って、フォローしている。ねこも出てくるが、なによりストーリーで原稿の進捗、と今日はここまで進めたい!という決意が出てきて、それを見るたびにやっぱりうれしくなる、人でよかった、と
それで、人になにかを伝えるって大事な~と思ってはいて、ラジオでも、そういう旨の話をしていたけど、日報のZINEを先月つくって、周りの人には配りきった、んだけども、本の作り方の本の探し方とか、参考になりそうな日記本とかの相談に乗ってくれて、わざわざ本を数冊をフロアまで持ってきてくれた司書さんには渡せていなくて、何度かチャレンジしに行ったけど、見当たらず、ちょっとキモいかもな~と思いながら、ついに昨日、カウンターでその人に渡しておいてもらえますか、って別の司書さんにお願いした、まぁちゃんと渡されたのかは知らないし、できるなら直接お礼のあいさつをしたかったけど、それも伝えることの延長にあるな、と思った、
で、今日は今日で大学の図書館に勝手に一部、置いてきた、置いてきてしまった?、「ご自由にどうぞ」っていう、招待券入れみたいなとこ、基本空いている、からまぁいいか、まぁいいか、っていうか、別にご自由にどうぞの解釈によっては、俺がここにZINEを勝手に入れる、というのもまぁ別に自由か、!と思って、しまった、つい。
たぶん、かつての俺は誰かにそれが伝わるかもな~という想像力でメシが食えるくらいに、想像が自分の中で結構な割合を占めていた、気がするけど、別に今はそんなこともない、普通によくないことをした、と思う。けど、拾った誰かがわざわざURLを踏んたりして、ここまでやってきていたら、おもしろい、とは思う。そういう意味で、あの、映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』の、出会い方は結構、すごい。そういう意味でっていうか、それに似た出会い方の、。どういうってのは、まぁ見てくれればいいんですけど、m&m'sのベンダーのクレームのメールフォームを介して男女が出会うんだけど、そんな出会い方、ってあり!?って当時、思った、あり!?というか、そういう想像の仕方が映像になって見れたことに感動した。原題、Demolitionっていうんかい…。どっちもめちゃいいんかい。
それで、本の話、をしていたんだった。
『百』は、『うらおもて人生録』を読み終えて、よかった、ので買った。安かったし、解説にも載っていたし、『うらおもて―』は先生が勧めていたから読んだけど、とっても、よかった、ね。何度も同じことを言っているんだけど、結局それは、人が人を説得する、こと、というか、本当の意味で分かるためにはそれくらいしつこく何かを言い続けないといけないんだと思う。割とつくづく思うけども、自分の身をもってして、ようやく本とか他人が言っていることの意味がわかったり、というのは往々にしてよくある。
それで『SFマガジン 1999年12月号』は、完全に年と月、だけを見て買った。生まれた年と月だから。雑誌のバックナンバーがあると、そういう探し方を優先してしまって、古本まつりでも、本の雑誌と現代思想を買った。生まれた時がどんなだったか、というのは少なくとも私は覚えていなくて、それをちょっとでも知りたいという気持ちがある。ノストラダムスの大予言では結局、いつがXデーだったんだ?
レトロとかノスタルジーに興味はあるけど、別にそれはその時代そのものを賛美しているのではない、と思う。単に興味がある、んだわね、興味、というか、惹かれるもの?がある、始まりは今、に対する逆張りだった可能性はあるけども
ここからはメモを適当に引っ張り出して、ぶちぶち書くので、とぎれとぎれの内容になるかもしれません、いやむしろ、今まで、がそうでなかった・そういう認識でなかったことに驚くかもしれませんけど
もしかしてもしかすると、私は別に人に何かをおすすめしたい、というのでもなく、単におすすめしている姿を見ていて欲しい、
というかむしろ、人に何か好きなものを話して欲しい、私に向かって、ということなのでないのか?
ってメモがあった、書いたの今日だけど
いや、割とそうなのでは?、逆ですけど発想元ととしては、つまりは私に向かってその人が好きなものをただ、単に話してほしい、というそれだけなんでないのか?、から、姿を見ていて欲しい、と言っています、が、見ていて欲しい、っていうか、いや、そこまでかは思ってないけど、
少なくとも、私がなにかしら作品なりを勧める時、それが別にその人だけに向けたもの、その人の人となりを見て当てはめるようにした作品でなくとも、なにかを勧める時に、私は相手にそれを見てほしい・読んでほしい・聞いてほしい、と思っているか、と言われたら、別にそこまででもないのでは…?と思う、思えてきた。
そうだとするなら、勧める時に起きているのは、単にその姿を見てほしい、っていうそういうことになるのでは?、ということ
と
逆に、私がなにか人に見てよかったものや、好きなものを聞く、というのは、単なる話題、というものを超えていて、その姿やポーズ、語るその人のことが知りたい気持ちやそこから見えるものを見たい気持ちなんでないのか?、という
やっぱり、結構、『他者といる技法』の最後に引っ張られてしまっている気がしていて、それは、質問をする、というのがその人に対する興味を示す方法として、ある、というそのやり方に固執してしまっているような気がする。本当はもっと別の方法もたくさんあるだろうし、示し方を私が意図していなくとも、たくさんの方法で私は他者といる、はずなのだが、それで記された言葉に引っ張られて、別に悪いことではないんだろうけど、そうしてしまう、ことがある、別の方法を考えずに。あそこで書かれていたのは単なる一例にすぎないし、それが本の主題とは多少異なるところではあるはずだろうに、それが印象に深く残っている、ということにどっか気後れするような気持があるというのか、
カメラで写真を撮るのが好きで、まぁまぁ前からいろんなカメラを買ってきては壊してしまう、というような感じで今まで来ていて、壊れるのはどれもが安いフィルムの中古だったりするからなのだが。
もしかして写真を撮るのがたのしい、得意かもしれない、と思ったのは高校一年生の時で、その時には別にカメラに興味もなかったし、なんなら初めて買ってもらった携帯でもそんなに写真をたくさん撮るほうではなかった。スマホはiPhone6で、グレー、スペースグレー、みたいな色の名前、スペース?ってどういう?、それで、同じクラスだった男の子に次の日に提出する課題を写させてほしい、だったか、なにかの範囲が書いてあった表?だったのか、それとも単なるプリントだったのか、覚えてないが、それを送るのに携帯のカメラを使って写真を撮った。自分としては、まぁまぁよくやっていたことだったが、デスクライトを灯した勉強机の上に、見えやすいようにクリアファイルかなにかを下敷きにして、その紙を置き、照明の明かりが映り込まないように、スマホの角度を少し斜めにして、また紙の全体が明るくなるようにフラッシュを焚いて写していた。それを送ったときに、その子から、「写真撮るのうまくね」、と言われたその一言がきっかけで私はカメラを手にすることになる。初めて買ったのはPENTAXのK-30という一眼レフだったが、重くて持ち運ぶ気にならず、そこまでたくさん写真を撮った記憶はない。
日報のフリーぺーパーを作ったことと古本市に出たことの感想はまた気が向いたら書くことにする。