散髪後、いつもちょっとだけ風邪を引く

どんどこどんどこ

脳内多弁の波が迫ってくる、月に一度

 

なるようになる、というかなるようにしかならない

みたいなアナロジー的なの、結構、好きなのですわね、

 

腰が痛くって、この時期によるものなのですか?

というか、サマータイムってなんだ?あとそれと対をなす冬時間ってのもあるのやね、この前新聞読んでて知りました。

あれって時計ごとずらすんだ!ね?知らなんだ

すごいね、それって、みんなでせーので、一時間ずらすって、すごくない?

楽しそう、祭りとかないのかな、みんなで時計を持ち寄って、一時間ずらして、その余剰?あまった時間って言うか、その差でなんか、みんなでポテトとか、さ?つまみながら抽選とかビンゴとかして、お米当てて帰ろうよ

 

今年の地元の秋祭りで、意気揚々と友達をたくさん誘ってポテトを詰めにいこうとしたのに、売り切れていた、それでそのあとの抽選も、というか、その間に挟まっていた、甥っ子を含めた子どもたちとのかけっことか、その時間、たけちゃんがスマブラでも見せないような顔つきで必死に子どもたちと遊んでいて、それがすごい、良いなと思ったあせだくだった。抽選は、結局俺は当たってないし、けどなんかオールスターみたいな、地元の人たち、かつて、っていう言い方?、私が地元にいた頃にいた人たちがたくさん、わらわらいて、当てていて、景品を、おもしろかったし、あと、友達の弟はでかくなっていた。結局、景品の中にお米があったのか、は覚えていない。僕はお米を当てて帰ると、宣言してはいなかったが、実家ではそれくらいの熱気で親とねこに挨拶をした、つもりだった。

 

今、深夜の2時にうどんを食べていて、明日の僕、が健康か、どうか、というより、出歩ける、?そんな元気があるかどうかを思い悩んで、髪を切るか、どうか、その予約をしようかどうか悩んでいる。でも、髪は切った方が、良い、スッキリもするし、あと、軽くなるから。

後頭部らへんが引っ張られる感じで痛くなる時が、時たまある、それがなんのせいなのかはわからないけど、メガネのレンズは相当ボロボロで、早く、替えた方がいい。メガネを初めてかけて以来、というよりそれ以前の世界の見え方と以後のそれは全然違うもので、そのどちらがよいわるいという話ではない、のだが、今の状況、つまりはレンズがボロボロであって、見たいものにうっすらもやがかかるような、そんなのは、絶対によくない、

そういう、いつでも行けるが、行くべきタイミングを自分で決めねばならないもの、は往々にして苦手、である。エイヤ!が必要だから、エイヤというときは、日常ではそんなに、ない。ブログを書く、というのもまあまぁエイヤ!である。最中がそこそこ楽しい、気がするのでぎりぎりできる、けど、そうでないものはなかなか手が付かない。

手が付かない?、そんなこと言うか?と思って、調べた。クロームはなんかAIが勝手に引用したような文章を画面のトップに持ってくる、あたかもそれが正解みたいに。知らないけど、それだけを見て、そうかぁと思って、戻って書き進めることにして、いる。

 

元気になったついで、に昨日?は本屋に行って、いや本当は、銭湯に行こう、とそういう思いで立ち寄った駅に、グーグルマップの行ってみたい、に登録してあった本屋さんが、あったから寄った。古書ドリス、(こういう場面で、さん、と敬称をつけることに、抵抗がある、と言う話をかつて先輩と喋った記憶がある。正確には話したのは、有名人に対して、さん、をつけるかどうかという話。だが、さん、なんて日常で付けないだろう、と思う。さん、と付けることが逆に、そのものとの近しさを表すことになる、気がする、というのはちょっとおかしいように思えて、おもしろい)

相当に良い本屋で、悔しくなった。お金がないのに、こんなに買わざるを得ない、なんてと思って、

そうなんです、古本屋の方が好きなんです私

かつて、新刊書店よりもブックオフの方が好き、と友達に言ったら、

「(私の名前)っぽくないね」と言われ、それなりにかちーんと来た、し、そういうリアクションをしたうえで、どうしてブックオフのほうが?と思ったことがある

それは、結局のところ、新刊書店に置いている本は、別にいつでも買える!からです!

別にいつでも、というのは語弊があると思うのですけども、でもまぁ要するにそのようなことで、つまりは、別にそのタイミングでなくとも、その書名さえ分かれば注文するなり、して買えるよなぁ、どうしても読みたいってんならそこで買いますけども、というそういうスタンスで、ある

のに対して、

古本屋はまぁ、もう打つのだるいから、そのまんま逆、新刊書店のまんま逆

出会ったら買うしかないので、買う、し、あと大体は安い

安さが理由な気もする、上記の問いに答えるなら

 

で、買ったのは7冊で、手に取った順で

『心がぽかぽかするニュース』

『新しい単位』

穂村弘『よくわからないけど、あきらかにすごい人』

色川武大『百』

『別冊100分de名著 フェミニズム

NHK人間大学1998年7~9月 野田昌宏 宇宙を空想してきた人々』

SFマガジン 1999年12月号』

で、それぞれまぁまぁすでに思い入れ?というか、理由があるけど、買ったことには、そりゃそうか、そうなのか?なんとなく買う、というのも、あるわな

 

まぁ、どれもおもしろい、と思うんですけど、

『心が―』は2005年くらいのタイトル通りの新聞記事をまとめた文庫で、もうこれが100円の棚にあったその瞬間から、もうあ~散財、と思った

『よくわからないけど―』は大学の行きの電車でちょっと読んでいて、穂村弘といろんな人の対談集だけど、企画を通して憧れの人に会えるってこと!?っていうのが、ざっくりまえがきに書いてあって、そんな人間が俺に、いるのか?と思った、誰だろうigrek-Uさん、とかかなぁ、憧れてギター買ったし。いや今なら保坂和志か?どのみち、会えても別に聞きたいと思うようなことは思いつかない、けど、これは、みんな誰かしらいるのかな?いないのか?

一番最初の対談相手は谷川俊太郎で、詩、ってもしかして、サイコー潮におもしろいのか?、と思ってみたりしていたが、中盤あたりで、小学生数人と詩の話をする機会があって、そこで「詩も草花と同じように読んでほしい」って、いう話をしていて、伝わらないと思っていたら、あとで一人の女の子からその言葉が一番印象に残っているっていう手紙が来て、嬉しかった、という話をしていて、谷川俊太郎ですら!?、と思った

というのは、一人の少女からの手紙、というか言葉で、嬉しくなったり!?すんの!?っていう、いや、そりゃそうだろうけど…ちゃんと人、なのか~というそういう実感、があります、

どっかでやっぱり「すごい人」、は人らしからぬ、っていうか、人を超えたもの、として描いちゃうところが私の中ではあって、推し、とか好きな漫画家、とかそういうもの、を人とは少し位相の違うものとしてしてしまうところがある、ので、

人であることを改めて思い知ると、嬉しくなったり、ちょっと残念だったり、する

会いたい人、いる!松本大洋先生!!会いて~~

真造圭吾のインスタを、先月のBrutusの猫特集の記事で知って、フォローしている。ねこも出てくるが、なによりストーリーで原稿の進捗、と今日はここまで進めたい!という決意が出てきて、それを見るたびにやっぱりうれしくなる、人でよかった、と

それで、人になにかを伝えるって大事な~と思ってはいて、ラジオでも、そういう旨の話をしていたけど、日報のZINEを先月つくって、周りの人には配りきった、んだけども、本の作り方の本の探し方とか、参考になりそうな日記本とかの相談に乗ってくれて、わざわざ本を数冊をフロアまで持ってきてくれた司書さんには渡せていなくて、何度かチャレンジしに行ったけど、見当たらず、ちょっとキモいかもな~と思いながら、ついに昨日、カウンターでその人に渡しておいてもらえますか、って別の司書さんにお願いした、まぁちゃんと渡されたのかは知らないし、できるなら直接お礼のあいさつをしたかったけど、それも伝えることの延長にあるな、と思った、

で、今日は今日で大学の図書館に勝手に一部、置いてきた、置いてきてしまった?、「ご自由にどうぞ」っていう、招待券入れみたいなとこ、基本空いている、からまぁいいか、まぁいいか、っていうか、別にご自由にどうぞの解釈によっては、俺がここにZINEを勝手に入れる、というのもまぁ別に自由か、!と思って、しまった、つい。

たぶん、かつての俺は誰かにそれが伝わるかもな~という想像力でメシが食えるくらいに、想像が自分の中で結構な割合を占めていた、気がするけど、別に今はそんなこともない、普通によくないことをした、と思う。けど、拾った誰かがわざわざURLを踏んたりして、ここまでやってきていたら、おもしろい、とは思う。そういう意味で、あの、映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』の、出会い方は結構、すごい。そういう意味でっていうか、それに似た出会い方の、。どういうってのは、まぁ見てくれればいいんですけど、m&m'sのベンダーのクレームのメールフォームを介して男女が出会うんだけど、そんな出会い方、ってあり!?って当時、思った、あり!?というか、そういう想像の仕方が映像になって見れたことに感動した。原題、Demolitionっていうんかい…。どっちもめちゃいいんかい。

 

それで、本の話、をしていたんだった。

『百』は、『うらおもて人生録』を読み終えて、よかった、ので買った。安かったし、解説にも載っていたし、『うらおもて―』は先生が勧めていたから読んだけど、とっても、よかった、ね。何度も同じことを言っているんだけど、結局それは、人が人を説得する、こと、というか、本当の意味で分かるためにはそれくらいしつこく何かを言い続けないといけないんだと思う。割とつくづく思うけども、自分の身をもってして、ようやく本とか他人が言っていることの意味がわかったり、というのは往々にしてよくある。

それで『SFマガジン 1999年12月号』は、完全に年と月、だけを見て買った。生まれた年と月だから。雑誌のバックナンバーがあると、そういう探し方を優先してしまって、古本まつりでも、本の雑誌現代思想を買った。生まれた時がどんなだったか、というのは少なくとも私は覚えていなくて、それをちょっとでも知りたいという気持ちがある。ノストラダムスの大予言では結局、いつがXデーだったんだ?

 

レトロとかノスタルジーに興味はあるけど、別にそれはその時代そのものを賛美しているのではない、と思う。単に興味がある、んだわね、興味、というか、惹かれるもの?がある、始まりは今、に対する逆張りだった可能性はあるけども

 

ここからはメモを適当に引っ張り出して、ぶちぶち書くので、とぎれとぎれの内容になるかもしれません、いやむしろ、今まで、がそうでなかった・そういう認識でなかったことに驚くかもしれませんけど

 

もしかしてもしかすると、私は別に人に何かをおすすめしたい、というのでもなく、単におすすめしている姿を見ていて欲しい、
というかむしろ、人に何か好きなものを話して欲しい、私に向かって、ということなのでないのか?

 

ってメモがあった、書いたの今日だけど

いや、割とそうなのでは?、逆ですけど発想元ととしては、つまりは私に向かってその人が好きなものをただ、単に話してほしい、というそれだけなんでないのか?、から、姿を見ていて欲しい、と言っています、が、見ていて欲しい、っていうか、いや、そこまでかは思ってないけど、

少なくとも、私がなにかしら作品なりを勧める時、それが別にその人だけに向けたもの、その人の人となりを見て当てはめるようにした作品でなくとも、なにかを勧める時に、私は相手にそれを見てほしい・読んでほしい・聞いてほしい、と思っているか、と言われたら、別にそこまででもないのでは…?と思う、思えてきた。

そうだとするなら、勧める時に起きているのは、単にその姿を見てほしい、っていうそういうことになるのでは?、ということ

逆に、私がなにか人に見てよかったものや、好きなものを聞く、というのは、単なる話題、というものを超えていて、その姿やポーズ、語るその人のことが知りたい気持ちやそこから見えるものを見たい気持ちなんでないのか?、という

やっぱり、結構、『他者といる技法』の最後に引っ張られてしまっている気がしていて、それは、質問をする、というのがその人に対する興味を示す方法として、ある、というそのやり方に固執してしまっているような気がする。本当はもっと別の方法もたくさんあるだろうし、示し方を私が意図していなくとも、たくさんの方法で私は他者といる、はずなのだが、それで記された言葉に引っ張られて、別に悪いことではないんだろうけど、そうしてしまう、ことがある、別の方法を考えずに。あそこで書かれていたのは単なる一例にすぎないし、それが本の主題とは多少異なるところではあるはずだろうに、それが印象に深く残っている、ということにどっか気後れするような気持があるというのか、

 

カメラで写真を撮るのが好きで、まぁまぁ前からいろんなカメラを買ってきては壊してしまう、というような感じで今まで来ていて、壊れるのはどれもが安いフィルムの中古だったりするからなのだが。

もしかして写真を撮るのがたのしい、得意かもしれない、と思ったのは高校一年生の時で、その時には別にカメラに興味もなかったし、なんなら初めて買ってもらった携帯でもそんなに写真をたくさん撮るほうではなかった。スマホiPhone6で、グレー、スペースグレー、みたいな色の名前、スペース?ってどういう?、それで、同じクラスだった男の子に次の日に提出する課題を写させてほしい、だったか、なにかの範囲が書いてあった表?だったのか、それとも単なるプリントだったのか、覚えてないが、それを送るのに携帯のカメラを使って写真を撮った。自分としては、まぁまぁよくやっていたことだったが、デスクライトを灯した勉強机の上に、見えやすいようにクリアファイルかなにかを下敷きにして、その紙を置き、照明の明かりが映り込まないように、スマホの角度を少し斜めにして、また紙の全体が明るくなるようにフラッシュを焚いて写していた。それを送ったときに、その子から、「写真撮るのうまくね」、と言われたその一言がきっかけで私はカメラを手にすることになる。初めて買ったのはPENTAXのK-30という一眼レフだったが、重くて持ち運ぶ気にならず、そこまでたくさん写真を撮った記憶はない。

 

日報のフリーぺーパーを作ったことと古本市に出たことの感想はまた気が向いたら書くことにする。

 

「ご自由にどうぞ」とは書いてなかった、記憶の捏造



毎度タイトルをつけるのを忘れる、忘れなかったことがない

たましいの更新です

 

闘魂

 

特に意味はないのですが、

 

改行改行

 

好きだった御茶ノ水のジャズ喫茶が閉店、閉店と言うか移転?

移転して中古のレコ屋さんになるらしい

そうですか~

 

音デッカイのが良いな~と思っていましたけど、音デッカイとこに居たいときもあります

 

家の中は結構暑い、今でも

 

 

昨日は夜に映画を見ていて、リチャード・リンクレイターの「ウェイキング・ライフ」

リンクレイターの作品、映画は、は兄に連れられて行った新文芸坐のオールナイトの特集で、見て以来、そこそこ見ていて

その時には、「6才のボクが、大人になるまで。」「エブリバディ・ウォンツ・サム!!世界はボクらの手の中に」「30年後の同窓会」を見ていて、18歳の10月だったらしい。調べた。

たぶん三つ目あたりの中盤で寝たということを覚えてはいて、その映画自体を見たことは今の今まで覚えていなかった。会話が中心で、眠い時にはそこそこ眠くなる。

それから、好きな映画を聞かれたら2個目の「エブリバディ―」を答えていて、それがなんで好きなのかって聞かれてもまぁそんなに答えれるような感じではなかったような。いや、まぁ大概がそうだけど、好きな理由が言えることは大して重要ではなくって、特に映画とか小説とかそもそも見てなにかが残るかどうか、とかそういうことは野暮っぽく感じてしまいがちなところもあります、あんまり上手に説明できていませんけども、、見ている時間になにが起きているかはその人とその時間にしかないものなのでないかとおもっている節があるので、説明できなくても別によいという開き直りがある。説明できるに越したことはない。

それで、それから新宿で兄と一緒に住むことになるんだけど、その翌年の春から

いや、あんまり関係ないわ、いや、映画を見ることのきっかけあたりにそれがあるような気がしなくもない。オールナイトで映画、みませんしねぇ

見た後は池袋駅の近くのマックで朝マックをした記憶、お互いぐったりしていたけど、その光景はそこそこ覚えている。

 

それから「スクール・オブ・ロック」とか、「ビフォア・サンライズ」とか見ました、けど後者は今年見ましたけど、あんまりよくわかりませんでしたが、それは僕がちゃんと見れていない、映画に没頭できなかったからなのかもしれません

 

ほんで、映画の系譜でいくと「エブリバディ―」が大学生活を、「バッド・チューニング」が高校生活を描いていて、どっちも似たようなもん、というとあれだけど、要約したらば、ジョックがドンチャカパーティをする、というそれだけなんだけど、その二つはとttってもよくて、兄がそのさらに前日譚?、詳しくはしらないけど、同じ系譜上にある、らしい「スラッカー」をもう一回見たいって言ってたけど、見たいねそうなるとね

「バッド・チューニング」は下高井戸シネマでなぜか今年リバイバルしていて、それもまた兄と見に行ったが、お互いに腰が痛いという話をした、けど、

映画が本当にとってもよくて、そのあと、サントラをしばらく聞いていて、その年代の映画自体はもっと後だが、70年代?頃の洋楽を聞くきっかけになりました。実家の車でそれらを聞くということをして、両親がどういう音楽を聴いていたのかって話にも発展した。そもそも私は両親についてあまりよく知らない。知らないままここまで来ていて、もうたぶん自分で聞かないと話をすることってほとんどないままみんながみんな忘れていく。

 

なにが、良いのかってあんまりはっきりとは言えないっていうか、物語らしい物語がほとんどないから別に喋ることがないし、そこで言われてたことのなにかが残っていて、それが、と言うこともできないくらいに覚えていない、覚えるもんでもないし、

それでも、かなりよくって、生涯のベストを選べって言われたら入るだろうなぁと思う

 

それで昨晩は、家で一人で、「ウェイキング・ライフ」を見て、それもまぁ、まぁというか全く物語っぽいもの?ストーリーはほぼないし、そこで喋ってる内容もほとんどごちゃごちゃしていて、なにがなんやら、って言えてしまうんだけど、それでもなんか、なんだ?すごいものを見たぞ!という気持ちはそこそこあって、ずーーーっとその映画のことを考えている。

夢がテーマであって、人の夢、について興味がないと思っていた、のはおませちゃんブラザーズの本田がかつてそう言っていたことに引っ張られていたんだけど、そのずーっと後に読んだ、山下澄人『俺に聞くの?』で夢について書いてあって、そうかーって簡単に手のひらを反して以来、とっても興味がある、あります、すみません、前者の時期に夢の話をしてくれた人、興味がなくて、その時には、すみません

映画でなにがなんやら、というか喋っている内容がどう、ということ、はそれもう別の分野、まさしく哲学の話になってしまいそうで、気が引ける、んだけど、別にまぁそれもそんなにそれ自体が難解って訳ではなくて、それをむしろ夢の中でやる、つまりは他者がそこにはいないはず、の場面で映像として生まれている、ということ、がむしろ主題なんでは、と思う、主人公がそれに思い悩む場面もある

 

それで、ちょうど、ちょうど、と思うのは、当然僕なのですが、

本を並行して何冊か読んでいて、みながわくんが買ってくれた柴崎友香『百年と一日』はそんなに読み進められてないけど、素晴らしい予感だけはとてもする、あとは堀静香『がっこうはじごく』もちょこっとしか読んでないけど、色川武大『うらおもて人生録』はとても、よいというか、読んでよかったと思い始めている

忘れないうちに、無駄なことはある、という発見があった

人生に無駄なことなんてないということを聞くたびに考え方が逆で、経験したこと、からしか思考が出発しない以上は、無駄なことがない、という言い方はできないのでは?と毎度言い続けていて、それはつまり、人生という枠の中で拾い上げてきた経験を目の前にある事象に対するものとしてや過去、として参照する、という構造にある以上はどうしようもなく、それ、少なくともその経験自体についてはが無駄であるとは言い難いのでは?ということを言っていたんだけど

それを反転させて、人生は経験がすべて、であるという風には言えるけど、言えない、正確に言うなら体験をすることがすべて、とは言えなくて、経験がすべてであるというのはその通りであると思う。ただし、その中には無駄も存在する。

小説家、の誰か、角田光代?か誰かが、経験としての読書は実体験よりも優れている、というような旨のことを新聞か何かで話していた気がする。そこそこ勇気づけられたが、それはつまり、本を読むことをどこかで二次的なもの、体験よりは劣るものとして自分の中で位置づけていたからだと思う、別にそれを著名な作家が言っていたから正しいと思ったから、なのではなくて、そんな風に言う人がいることそれ自体に勇気づけられたという感じですが、

で、無駄は確かにある、と『うらおもて―』を読んでそう思ってしまっている。短い人生の中で体験できることには確かに限界があって、そうだとするなら、全てを私が体験・経験できるのではない、というのは自明だったが、改めて無駄なことはあって、それを避けながら自分の、人生を生きるしかないのでは?と思えてきた

無駄である、という判断を下すという経験と言えるのであればそれもまた無駄ではない、とも思えるが。

少なくとも、経験がすべてである、のはそうだとして、その中には避けられる、避けてもよい無駄な経験が含まれている、ということなのでは?

 

それでさらに別の本野矢茂樹『はじめて考えるときのように』を読んで、いる間にちょうど「ウェイキング・ライフ」を見たのだった。みじかーい本で読みやすいので2日で読んだが、ちょうどその間、にその本を読んで考えることを考えた。とっても良い本で、手元に置いておきたい本リストに追加します、今。

追加してきました。

本を手元に置いておくことのメリットは一に読み返せること、でその次に貸せること、だとおもっているが、後者は単に自己満なのかもしれない、と最近は思ってきた、借りた本をまともに読めた試しが、ない、ということもないか

 

それで、ちょうど夢の話をしていて、夢というものが夢であるためには醒める現実が必要であって、その対比があって、初めて夢が夢たりえる、と

当たり前と言えば当たり前だが、映画を見た時にはその夢である映像のことばっかりが気になっていて、そのことを忘れてしまっていた。

 

映画を見た時に途中でトイレに立ったし、DMMのプレイヤーが重くてちょくちょく止まってしまったので、というかそのおかげで僕はその夢から醒めることができたのかもしれない、と思うほどに映像に引き込まれたし、むしろ引き込まれてみたいようにも思ったネ

 

結局、なにが書きたくて、と、書いたところで、まだ続きがあったことを思い出した、

思い出したというか、

 

それが昨晩の話で今日は今日で図書館にいて、大学の、大学の図書館の、あのスペース、わかりますか?あのスペース、文庫と新書のスペースによく挟まれに行くのですが、ちくま、がアツいわね、と最近の私は思っています

 

ほんで、いつもとは逆から見たろうと、クセジュとNHK出版からではなく、ちくまからちくまと講談社から見たろうと、そう思って、立ったり座ったりしながら、見ていっていて、

ほんで気になる本はそれなりにあって、メモとかしながら読んでいたんだけども、

木田元『わたしの哲学入門』を最後の章、の反哲学についてみたいなところから読んでいて、ホーホーホー!って感じだったんだけど、これはおもしろいという意味なんですけど、

木田元の著作を手に取って、反哲学の章を読むのには背景があって、それもまた兄の影響なんだけど、どういうタイミングでかは忘れたけど、たしか大学入るころ?春休み?あたりに『反哲学入門』を贈ってくれて、そのときに読んだから、なんだけど、

それがうっすらきっかけで哲学、興味あり!となりましたが、その直接的なこと、本のプレゼントがなくとも別に哲学っぽいことが気になってはいただろうなぁとも思う、が、つねづね兄の影響は多大であるからして、そこから来ているというはなしもある

 

別にそれはよくて、そのあと?前にベルクソン物質と記憶』をちょろっと解説だけ読んで、えぇ、おもしろいかもしれない、と思って入門書を2冊借りた。その前の日にも本を3冊借りている。それを持ったままさらに借りた、そういうことがたたって、腰が痛い、やめたらいいのに、というか、読む本を選別したらいいのに、

 

おもしろい~ベルクソン、と思っています

 

記憶~興味ある気がしています、『物質と―』を取ったのもそこからな気

記憶~について思いますが、たぶん、別に私がほかの人と比べて、物忘れが激しい、というのではないような気がしてきました。特段というほどでは、とおもうだけで、覚えていないことはたぶん人より多いし、覚えていない、とついつい言ってしまうことが多い、ことはたしかなんですけど、

 

人と話していて、その人との記憶がない訳ではなくて、ただ違うのは、人と話しているとき、発話の瞬間と記憶を思い出す瞬間が逆なのでは?という

逆、というか、発話をしているとき、に特に何も考えていない、というそれが一番の問題であって、それが起こるのは、対人関係における気まずさ、なり、話をすることに最も配慮と重きを置いている自分の在り方が関係しているのでは?と思う

私が問いかけなり、過去の話をして、その人はそのことを思い浮かべる、という順序であって、通常、人がなにかを問いかけるとき、覚えていることについて話すのが普通で、あやふやな時になにかを言うってことはないのでは?墓穴を掘るようなだけなので?

 

いや、ここまで書いてきて、やっぱり単に記憶が薄い、だけなのでは?と思うとともにフツーに配慮と思いやりが足りていないよな、と思えてもいます

が、でもこれって結構な割合、コミュニケーション上における問題なような気もする、コミュニケーションにおいて私がなにに重きを置いているのか、というそこですか…?重きを置く、っていうか、それを置いているときに抜けてしまう部分がなぜか記憶なのでは?という?うーん?すみません、でもそういうような、こともあるような・?

 

 

身体の調子が悪くなる、全体的な調子だけども、たぶん身体から先にきている気がする、月に一度、くらいの頻度でそういう日が2,3日続いて、ウラーっと抜けていく

 

音楽が聴けるかどうかがそれなりの指標になっている気がするけど、むしろ逆で音楽を聴くことがなにかしらリフレッシュになっているのかもしれない

ちょっと前にはクラブに行って爆音を聞くことでそれをどうにかしていたようにも思う

休日に、というか、なにも予定がない日、になにも予定を入れない、というのは向かないのだと思う、いや、わからん、それがないと、それっていうのは、そういう休み方をしないとどうかなるのかもしれないとも思うけど、まぁ、少なくとも自分の家にこもっているのはあまり、と思っている

 

走ればいいのか、とも思う、走ろうかな

体力がどう、というより、運動なんだとも思う、歩くだけでは足りなくて、運動として運動を行うというのかなんなのか

 

とりあえず散歩へ

バーガーキングのキャップを被ったボムキングのファンアート

図らずも体調を崩していて、それがついさっき、このときのさっきが示す時間は、今日、昼くらいのことで、治った

僕は言霊を信じていて、あまり元気であることをことさらに口にしたくない

言霊というのは、辞書通りの意味ではなくて、言霊というのは、辞書通りの意味ではなくって?

ていうか、どういうふうに名前をつけてよいのかわからないから、ひとまず、いや、たぶんこのまま変更しないんだけど、

言霊kotodamaは、自分の運について自らの言葉を持ってして語ることによって、その運気が下がってしまうということを示していて、

と、いうふうにわざわざ定義づけてしまうと、この場合、つまり、今わたしが体調について自分で言及することはその定義から外れてしまうのでは?とおもえてきた

けれども、言霊という言葉を使って言いたいことは、自分のこと、体調なり自分の運なりを自分で比較的客観視したような発言をすることで、それがマイナス方向に向かってしまうのではなかろうか、という自分のおそれを示している

言霊が始まるきっかけはラジオでも言っていた気がする、が、

中学生時代、めざまし占い(ムーンプリンセス妃弥子さん)がめちゃくちゃ当たっていて、それを公言すると、公言の相手はクラスメイトとか友達とかですけど、公言したらなんか、運ってかツキが悪いってかんじがしてしまう、というそれがきっかけで

ほかのこと、例えば体調とか調子とか、そういうことを自分で判断して口にしてしまうことに少し億劫さがある

 

んでも、言ったほうがよい場面は当然あるように思うし、それとこれとは別だよな、という切り替えをうまいことしてもらうことにする、自分に

 

 

それで、ツイッターがおもしろい(心身が健康なので)

括弧書きのなかは言霊の適用外とすることにする

全ては自分ルールなので

 

チャットモンチーってめちゃくちゃ素晴らしい

 

あと、押見修造も天才です、どう考えても

 

でも、押見修造はあれを漫画でやっているからすごいのか、と思う

小説の分野であっても、押見修造が描くもの、思春期や性、親などのテーマを書く人は当然いて、それに読者がいて、天才だって言っている人がいる

いや、当然ながら押見修造は唯一無二で、それとこれとは関係なく作品は素晴らしいと思うのですが、

 

夏の集中講義が急遽オンラインになり、漫画喫茶に行って、新宿の、

新宿の漫画喫茶に行くということを御茶ノ水バーキンで決めたとき、

 

バーガーキングがある街は素敵、直火焼だし、キャップがかわいい、

ハンバーガーのキングだぞ!!!、ボムキングとコラボしないかな…?

いや、ファンアートでボムキングバーガーキングのキャップを被っている絵が、描きたい…!いや、!描けばいい!すべてはそう…いつでもやりたいときにやるのが一番なので…

 

新宿の漫画喫茶というとareあれ、ですよねあの、新海誠新海誠って名前、非常に思い出し肉い、にくいね!三菱!『天気の子』を思い出す

いや、正確に言うと天気の子の、スクショ、カップ麺をすする、主人公、つまりミツハじゃない方、ミツハだっけ?あの子、天気の子、あrE?いや、主人公どっち?

あ、天気の子じゃねぇじゃん、なんだっけ、あの、えーっと山梨の方、入れ替わるやつ、あの、ここで、僕のアハ体験を、ご一緒にどうぞ、読んでくれている方、あ

あの~、えええええっとなんだっけ、えーと

なに?

あの、とりあえず僕が最近撮ったいい感じの写真でも見ますか?

工事現場にはロマンがある

かつてあったものとこれから建つものが想像できるから

それらしいことをいいましたが、今、思いつきです

お茶、おいしい

大谷さん、お~いお茶の川柳が面白くないって言ってすみませんでした。

 

あの花しか出てこない、あなるしか

えーっと、なんだっけマジで、

思いだし!!た『君の名は。』ですよね!!!!!!

今、大谷翔平への謝罪で「。」を使ったことが活きました!!!!!!!!

たぶん!!意識してないけど!!!!!!!

 

アハー!、アハ体験ということばを使うと、アハ体験ってワードはおもしろのジャンルに類されていますので、頻出ではあるのですが、

それを口にするたびに、アハ体験のあの画面、テレビで四角い画像が表示されて、次第に変化していきます、くまなく見て見つけましょう、見つけることがあなたの脳の云々カンヌン言っている茂木健一郎が右下に常にいる画面、をうっすらと思い出す、正確には右下にいる白衣姿の茂木健一郎だけが現実の世界にAR的に映るので、す

 

 

それで『おかえりアリス』と『いやはや熱海くん』、『かさねと昴』を取ってきて、いて、漫画喫茶ですからね、授業とはいえね?もったいないから、その、ね?

どれもが結構、性に関する話で、結構っていうかガッツリそれがテーマであるような作品ばかりを手に取っていて、特に後者2つはそれほど知らなかったのに、ふと手に取ったのがそれらで、ちょっとびっくり、したんだけど、

全部か?

全部書かないとダメか?

えーと、

どれもが性をテーマとしていて、今のわたしの中で性について興味がある、興味があるというか考えたいと思っているというのが、無意識に出ていたのか?と思ってびっくりしたんです

 

そう言えば、

そう言えばではないけど、喋っている場合には、こういうときそう言えばと言うだろうな、と思って、そう言えば

漫画喫茶に行く前にブックオフ新宿西口店に、その前にはMARUZEN御茶ノ水店にいたんですけど、

ブクオフでは本を買いたいぞ!とほんのちょっと、ほんのちょっとですよ、おかねないんだから、

それで、まぁ、せっかく来たし、と思って、本命の安くなっているコーナーに行く前に好きな作家のところだけ見に行くかと思って、単行本のところに滝口悠生の『茄子の輝き』があって、おと思ったが、裏表紙には1300円とかそこらの値札が貼ってあって、悩んだけど、一旦検索してみて、とりあえず、それで、ブラウザの下のページに、どうして麦ちゃんは『茄子の輝き』を読んで涙したのかっていうタイトル?内容のサイトがあって、麦ちゃんというのは映画『」おい!!やばいだろ!!!!!映画のタイトル忘れすぎだろ!!!

あの、

ええっと坂元裕二のああ!?

あえおー、『ラストマイル』、みんなが、みんな?良いって言ってるっぽいような風が来ている感じがあるので、ちょっと気になる

えーーーーとt

『花束のような恋をした』!!!!!!!!!の麦ちゃん、有村架純!!!!!!!

アハー!!!!!!茂木!!!!健一郎!!!!

原宿と同じなんだ、名前

 

麦ちゃんが読んで、泣いたのかー

、とうっすら思って買うのをやめて、安い本のコーナーを、新書のコーナーを下から上まで見ていて、キュレーションについての本とか、気になったけど、買わないでおいて、買ったのは『「わかる」とはどういうことか』、『悪口ってなんだろう』、『聞く技術、聞いてもらう技術』『言語学の教室』で

言語学の教室、兄に貸してもらっていたか!?と思ったけど、借りてる本の積読コーナーにはとりあえずなかったので、大丈夫そうです、

借りてる本の積読コーナー、こんなのあっちゃいけないよ

 

これまたちょっと今の自分が現れてしまっているようで、おもしれ~

あとひよこ舎『本棚』も買うか迷ったけど、やめた

最近の俺は!買い物を!知っている!!!!と思う

知っているというかようやく買うべきものと買わないでいいものの区別がつくようになった気がする

 

ルフィーは旅の思い出の品とかどうしてるんだろう、貸しコンテナとか借りてたりするのかな、だって船には積めないですよね?流石に全部はね?フランキーさん!?そうですよね?

(すべてを書く、ということをすると、ルフィーが出てきたのは

「最近の俺は!買い物を!」→買物王に!俺はなる!→海賊王!→ルフィー→ルフィーはモノについてどう思っているんだろう、

という順序)

 

それで全部を書くというのは直近のゼミでの先生の言葉を受けているんだけど、それにも出典があって、それもついでに見ておこうというので、MARUZENでは、

MARUZEN丸善からMARUZENという表記にしたときの会議、再現したほうが良い、、詳細は全く知らないけど、たぶん、めっちゃかっこよくないか?って思った人間のプレゼンを聞きたい

『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』で、それをパラパラめくって、買おうか迷ったんだけれども、とりあえずは何かを読むことを進めるよりも、先生に言われたとおりにしてみよう、というか、そんなに時間が、あるけどないので、

そうすることにして、新宿に向かったんでした

 

でもまぁ全てはかけないし、というか、いや、うーん、すべてを書け、というのは、いや、というか、その実践の場自体が別に日常のことを各場面において、それをそうしろというのではないことはわかってるんですけど、感銘!うけましたので、それで、一応、そういう、そのようなことになっています

 

集中講義はとってもおもしろいと思う

言うほどそんなにたくさん取ったわけではないけど、思い返せる範囲だけでもとりあえず3つはおもしろかったし、思い出せるの3つしかないけど、集中講義ってわたし3つしか取ってないのでは?それで100%で全部おもしろいんだとしたら、それは!すごいことだ!!

 

例に漏れず今回の講義もおもしろかったし、理由はいくつかあげれるけど、これも?これも全部書かないと駄目なのですか…?いや、取捨選択しましょうね

先生がおもしろいよね~熱意、あるよね~それに尽きますわ!

熱意、あると、生徒、やる気、出るね

 

でもな~、なんか対面で人とうまいこと喋れないわね、最近ね

あれです、すでに仲の良い人は別としてですけど、

びっくりしましたね、二日目のグループワークのわたしの様子、ええ!?

なんもせんやんけ!!!!!!

いや、あれなんだよな~入りをミスると全てが崩れる、(ような気がうっすらしてしまって、その後取り戻す、取り戻すと言うこと自体がズレている)ような、ね

これも別にあれっすよ、理由を考えれば別にいくらでも出てくるっすよ、それっぽいこと、たぶん納得もできるし、考えてみることも有用なのかも知れないですけどね

うーむ?

いやでも、あれっすよね、あの、~、作法、というか、型みたいなのがたぶんあって、わたし、みんな?、初対面とかそんなに面識ない人に対して、自然とこうしてしまう、みたいなことってたぶん、あるように思えていて、それがある事自体はたぶん否定できないし、するべきでもないと思うんですけど、それが自分の望ましい型であるかどうかは検討の必要があって、もしもそれが、それによって、その後のコミュニケーションや感情に遺恨が残るんだったら、多少なりとも改善する方向に持っていったほうがよいとおもうんですわ、

もろもろ?E?もろもろ、なに?

今、なにが起きたか説明するぜ!

もろもろ、と打ったところでラインが来ていたことに気づいて、それに返事していたら、その続きがなんだったのか、忘れてしまったぜ!

もろもろ、なんだったけ

もろもろ、もろもろ、もろもろという文字にはあいている空間が多いなぁ、こういう発想はバカリズムが発明したのか?発明、、、発明についても(この、も、は下のFilmarksの件の続きという意味で、も、ですが、途中挿入する形で今、この部分を書いてますのでね、そういうことも起きますわ)どっかで書きましたよ、、、ああぁ『ショーシャンクの空に』のFilmarksだったような…気がする

 

もろもろ、もろもろはもうどうでもいい←空間多くね?

 

そんでもって、これは、自分に何が起きているのかを知りたい、というか説明したい気持ちに思わずなっちゃうんだけど、

いや、一旦説明してみようかな

 

人のことを知りたい気持ちが質問の原動力で、それがあることを根底のパワーとして、人と対話ができる、というような、論理の順番が違う、気がしてきましたが、そういうことを『他者といる技法』で奥村隆は言っていたわけですが、そうなんだとして、

そうなんだとしたら、その人に興味がない、もしくはある程度のことを知ってしまっている、と自分が思ってしまっているとき、わたしはその人と大した話ができない、のでは…?

というふうな説明もできるわけです

 

でも、現実的には自分は自分の身体とともにあって、むずかしい、どういうふうに言っても、それはどうなの?って言われてしまいそうだけど、ともかくもわたしは私の身体があって、それで生きているので、そうだとするならどんなときであっても自分の身体の状態のことを度外視することはできない

とも思えるので、↓

たぶんテンションが低い、低かった

のは寝不足だからだと思う

よく寝て!!!!!!よく寝て!元気でいて!シャキッとして!

 

嬉しいことは嬉しいふうにしたほうがいいし、できないなら言葉できちんと伝えるべきなんだと思うんですけどね~

元気じゃないときでも、いつでも

 

な~かつて、Filmarksで人とどう接するのがよいのかみたいなことをちらっと書いたけど、それもまたマジでどこに書いたか覚えてない

が、!生ハム!生ハムの原木がなぜかあって、それのせいで映画が見づらいと書いていたのは!『聲の形』だった!!

 

ハハハ

あれですわ、結構あれかも、押見修造、はマジで自分のことを開いて?開いてというか、根底に自分の経験があるから、それを真に受けてるかも知れませんわね

 

ん~やっぱり私の今年1(今年一番の驚き・発見)は人はそんなに統一的な存在じゃないってことですわね~~

 

写真を添えて終わりたい♪

(もしもここで、俺が実家のねこの写真をあげる、として、それはなにか、ねこにとっての肖像権に違反したり、する?あれ?違反、というか、法律ってそもそも、というかルールって、定められたきまりを守ることそれ自体、が目的なんだっけ?、なのではなくって、共生のためにあるんだっけ?ルールって?)

↑ビルの1階部分に居た、飾り?棚

 

セミの量、ではなく数

台風が来ると窓を全開にしてNo.6ごっこがしたくなる、ということを言っていたことをちょくちょく思い出す

 

大概のことはメモしたりすることにしていて、でないと本当に頻繁にものごとを忘れる

ほかの人がどうしているのかわからないが、もうそうしないと結構不安なところまできた

 

忘れてしまったことを忘れるのには結構時間が必要になる気がしていて、なにかを思いついたり、考えていたりしたことを忘れてしまったことだけが残っていることが結構ある

 

Twitterのいいね欄が見れなくなったことで確かにほかの人のは見れなくなったが、自分のいいねの数はものすごく増えた、取り繕うことがないので

そうなるとそうなったで、見せたい気持ちも出てくる、自分がいいね!したものを

いつかブログで披露しよう、披露ではない、俺はただアルゴリズムに沿い、それを見ただけで、なにもしていない

 

自分一人で、本当に一人きりでなにかに、なにかってのは考えたりすることができたりするんだろうか

アルバイト先の社員が実存について?人生の意味について?なにかしらごにゃごにゃ言っていて、それをほかのバイトがしらけて聞いている中、僕はそれなりに楽しくしゃべっていたけど、

一人でそこにあった暫定的な解に至ることってできるのか?なにかしらに影響を受けているのは違いなく、それのソースが明確に自分の中で区別がついているかどうかなのでないのか?と思うけど

それは別にたぶん、ほかの人にとっちゃそれほど重要でもないのかもしれないと思うけど、私にとっちゃあ一大事ですわ

ながーーい間それにさいなまれて?苛まれている?のか?知らんけど

 

焼肉が嫌いなのは、単に焼けているかどうか判別がつきづらいからなのではないのか?

判定員が隣にいたらものすごく楽しめる予感してきた、いや、でも焼いて来いよって思うなたぶん、焼くのそんなにおもしろくない、しゃぶしゃぶはおもしろいから良い

 

大概の人がわたしに興味ないのを前提として生きることとして、それとこれとは全く別で私はわたしのことをとっても大好きなのであって、そうやって言うことについてもそれほど恥ずかしいとは思えなくなってきているが、

それはたぶんいや、そのあとを書こうとして、それが無粋であることを思ってやめる

別に誰に読まれても恥ずかしくはないけども

 

今日、検便を持ちながら一日生活していて、一日生活していてっていうか、

↓詳細

朝、寝坊して本来の出発時刻に起き、シャワーを浴びて、バイト先へ行ったわけですが、掛け持ち先のバイト先から提出を求めらていた検便を、持っていきながら、てくてく歩いて駅まで向かっていて

あとなんか今日はもうあんまり、いや、夏だったけど気持ちのいい夏っていうか、思い描いている夏っていうか、そんな感じで、

それでも自分のアパートの廊下にセミが1週間くらい転がっていて、その都度ビビり散らかしており、ドアを開け3歩目で止まるということを繰り返している

虫が苦手である、と言ったがゆえに、虫のことを意識してしまっているかもしれない

地面に落ちているセミの量、落ちている?居るセミの数が半端でなく、例年の比にならないくらい、見つかる

それは例年通りいるのか、俺が意識してしまっているがゆえに見つけてしまっているのか

アメリカでセミがスゲーたくさんいるって聞いた、ものすごい量

ていうか、アメリカにもセミ、いるんだ、そうだcicadaそうでした英語でセミ

 

それで検便を持ちながら、一日が始まり、電車に乗ってバイト先へ向かうが、

汗だくでタオルで顔をぬぐいながら、ふと下を見ると、紙袋の中にビニール袋があり、その中には検便があるなぁと思っていたし、本を読んでいて首が痛くなり、首を回した先に検便がちらついて、着いてからも検便がそこに、と思いながら過ごしていた

 

それでバイトを終えて、図書館に行き、目当ての本とそれ以外の本を読んだり、コピーしたり、貸出の機械にカードのバーコードを見せたりしていて、そのそばには紙袋があって、検便が

 

気分が、というか、暑いんだけども、暑い夏だったので、喫茶店にでも行ったるかと昼くらいから思っていたことを実行しようと音楽を聴きながら歩いて、喫茶店に向かって店の前が大きな道路で、その反対にある郵便局に入ってATMとかポチポチしていて

ATMがある施設は嬉しくなるくらい夏、涼しいし、冬はあったかい、

街にはときどきこういうセーブポイントがあってほしい

切手もたくさん売っていて、おもしろかった

で、出た先にちょうど調べていた喫茶店があったが、閉まっているような雰囲気で、

まぁ一応見に行ったけども案の定閉まっていて、仕方なく別の喫茶店に行った

 

当然左手には紙袋があって、その中には検便もある、ないと大変だ、実費で検便しないといけなくなる 実費検便 こわい響き

 

別の喫茶店は地下にあって、汗だくで階段を下って、自動ドアが開いた先は誰もいなかったが、営業しているようで、たばこのにおいがした

壁に絵が飾ってあって、どうやら小学生の絵のようで、ときどき金賞とか入選みたいなシールが貼ってあった、四方を10枚くらいの絵で囲われていて、その中で飲んだジョッキのコーヒーフロートは美味しかった

 

地下にあるからなのか、携帯の電波が通りづらくて、嬉しくなった、携帯なんてなるたけ開きたくないので

小林泰三『海を見る人』を表題作だけ読んで、ものすごくよくて、近くに図書館があってくれて、ありがとうと思う

年齢だけは裏切らない、というか、絶対に覆せないよなぁと思うことがときどきあって、それはメモしなくてもよいなと思ってしまうくらい、些末でそう感じた先になにもないから、別になにも書いたりしていなかったが、作品の中で軽々とそれを覆してくれて、嬉しくもなったし、年齢など単なる数字で、現実の世界の中でだけの話だったのだと思い直した

 

滝口悠生の『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を読み始めて、これもとってもよい本で、久しぶりに、いやそんなことはないけど、新品で買ってよかったと思う、というか古本で売っているのを見たことがないから、わざわざ、いや、というか現物で売っているのを初めて見たから、買ったのだったが、そらもうよくて、買って正解だったなぁと結構な頻度で思っているし、自分でカバーを作ってつけるのはおもしろい

 

その中で、結構前半(まだ読み終えるまでに時間があるということで嬉しい)に「ムーンドッグ」という詩人のレコードを買う場面があって、その名前を聞いたことがあるな~って思っていて、それは映画の『ビーチ・バム まじめに不真面目』で出てくる、というか主人公のマシュー・マコノヒーが演じていた人物で、その映画のことを思い出したりした

 

自分としてはまぁまぁ覚えていて、というか映画はそこそこ覚えていることが多い気がする、結構集中してみていると思う、いつも

 

それで、どんな感想を残していたのか気になり、自分のFilmarksを見てみたら、長文でながながと、珍しく日記ではなく映画について書いていた

↓全文(2022/08/07 06:10投稿)

タイプライターっていいわよね
欲しくなっちゃうよね普通にね
ガションってして~なガション
詩がどういう立ち位置に当たるのか、日本と他の文化圏ではそれぞれ異なるんだろうけど
5000万$ってハンパでねぇよな~
前にツイッターで「普通でないことを主眼としたもの、大概ダサい」っていうのを見たが、まぁまっとうなご意見である
最終、というか、終止、反消費主義的・反資本主義的な感がありますが、
常々ヒッピー的な有り様を追い求めている中で、ギリギリ孤立するわけでもなく、それをかつて名を馳せた「詩人」であることで、防ぐわけなんですが
そんなことができるのは結局、本人が自他共に認める天才であるが故なんですけど、まぁ結局そういう超人エンタメムービ―に落ち着いてしまっているように思えてしまった
が、
まぁ言っていることはそれなりにその通りでして、な
けど、まぁそういうことをしていても結局は同じ社会に生きざるをえないので、お金という概念から離れることはできんのである
別に私もお金・資本主義を真っ向から反対しているのではなくて、それらが世界の基準になっているのにどうしようもなく、しょうもないって言っているだけなんですけど
すべてがわかりやすい基準だけに淘汰されていく思考に自分を落ち着けたくないだけなんですよね~
まぁ大半の人がそんなことを思って日常を生きているとは到底思えませんが、私からすると、どっかであ~何してんだろうという風に思えてならんのであるね、でも別に慣れるだろうなっていう気もしている
競争というのも一つのわかりやすい基準とルールに身を預けることによって初めて成り立つものなのであって、だから、盛り上がるのだろうなとも思うわけですが、別にそれだけが唯一の盛り上がる手段・おもしろいもの、という訳ではないでしょう?
天才であること・才能があることを、明らかな免罪符として一般の社会生活を免責するのはどうなんでしょうね?別に映画だからそれでいいんですけど
いや、でもここでは~最後に言われたとおりで、金があることが一つの特権性として世界ではもてはやされているが、別にそれだけではないのでは?という意味合いで才能が引き合いに出されているのでは?
主人公が行っている横暴が、実はお金ですべて成し得るのでは…?
それらを我々がどこかで許容しているだけにすぎないのであって、それだけお金を持っていることが社会にとっての一番の免罪符として存在しているのでは…?
その不毛さに苛まれないわけがないのであって、それはエージェントなり弁護士なりがお金を持つこと・また、才能が大衆に認められること(ピュリッツァー賞を受賞すること)によって全く異なる反応を示すことで示唆されてるんでは?
まぁでも、日本はたぶんかなり生きやすい
普通に生きていれば、たぶん他の人のことなど全く考える隙を与えられること無く平生と自己満足だけに浸って生きていける
結局は、どこまで見えないものまで範囲を広げていくことだできるのか・広げたいと思えるのか、という話に過ぎなくて、
仮に目の前で誰かがコケているのを見て、きっと8割の人間は心配するし、半分くらいは大丈夫ですか?って声すらかけるのであろうとおもうが、(見えていない範囲で苦しんでいる人・苦しんでいなくとも気付けば泥沼に陥っている人が、いるのでは?ないし、自分が持っている特権性を想定して〉、見えていなくてももしかしたら世界には、そういう構造にあるのでは?と、いうのをいかに平生と生きてい(け)る社会の中で、想像できるようになるのか、というね~
圧倒的な加害性で生きているが、自由奔放に生きたいところで生きているムーンドッグの方が実は現実を一番直視しているのかもしれないな、とさえ思えてしまうね
一つの箱に閉じこもって生きていることが是とされるような価値観と、(少なくとも私にとっては)おもしろくもない競争に飲み込まれ(ざるを得ない)社会の中でいかにして自分で自分のことを確固たるものとして確立できうるのか、というのが今の自分に課せられているもの、なのであってだな、少なくとも自分の選択なり、価値の判断を他人に預けるべきではないのだろう~ね
根本、別に競争が持つおもしろさ、というのはたぶん本能に沿うもので、アイドルを見てかわいいと、思ってしまうのとほとんど構造的には同じものだろうな、と思います、アイドルとかいくらでも見れるからね~
が、別に競争自体が悪いとしているのではなくて、競争はたぶんかなりの劇薬であって、少なくとも結構な人数がその構造の持つ魅力に魅了されて(しまって)いる、ように見える
たぶん大半の人間はそういう構造に身を投じていること自体、自覚的ではないのかもしれないし、むしろたぶん社会的に勝ち馬・勝ち組とされる人間はそういうものを自明としてかなり戦略的に競争に打ち込んでいるのではなかろうか
で~、私が根本のところで、否定しているのは、競争それ自体というよりも、競争が他から与えられた基準でもって決まること・その順位:勝ち負けがもたらす自己評価なんですわなたぶん
前者はまぁ言うまでもなく、おかしいのは当然であって、少なくとも自分がいっちばん素晴らしいのは言うまでもない事実なのであって、それが他人の価値基準でもって歪められているのが、最初からおかしい・最近は(最近なのかは知りませんが、)認められること・バズることそれ自体が是とされる価値観にあるように思えますけど、別にそれはそれ自体で持って重要なわけでは決してない↓つづく
後者はまんまそれのことを言っていて、競争に身を沈めている(沈め始める)と、それ自体が自分自身を定義しだす気が大いにしている
たぶんそこまでラディカルにこれについて考えているのはあまり居ないのかもしれない:と、いうのも大半の人間はそれなりの承認をそれなりの方法で満たすことによってある種の思考停止の基に日常を日常として消化していくから(結婚・恋愛→身近なパートナーにお互いに「承認」し合う他)ですが、そういう構造に身を置き、どこかで精神を摩耗させながらも、一方で家庭なりでそれらを忘れ(させ)る、みたいなものはもうたぶんそんなに持たない
まぁ結論、別に自分のやっていること・したいことがそれ自体として楽しいもの・希望に溢れたもの・想像性の基でなにか自分にとっての大切なものと合致するんであればそれだけで、全てが解決するので、自らをどんな場所に置いてもどうにかなるんだろう、と思います
日常が日常としてそれ自体がたのしいのであればそれに越したことはないので

ビーチ・バム まじめに不真面目のぱたんぐのネタバレレビュー・ 内容・結末 | Filmarks映画

 

ふーんっておもうけど、なんでタイトルの「まじめに不真面目」に触れないのか?かいけつゾロリが掠るよなどう考えても

それはたぶん当時も思っていたけど、書く段になったら忘れてんでしょうね、きっと

 

割とそんなに変わってないけど、考えとしては

というか、人間も時代もそんなにガラッと変わるこたないのでしょうねぇきっと

ガラッと変わったら変だもの、フツウに、怪しむべし

ハーモニー・コリン~『ガンモ』見たいな~

 

そんで、ムーンドッグって実在したんだ~って思いました、という話がしたかった

 

 

茶店を出て、電車に乗って、掛け持ち先へ

目的の駅に着かないと思っていたら、乗り過ごしていて、それでも別に何とも思わず、なんとも思わずというのは、イラつきもせず、なぜなら前日ちゃんと寝たので

それで折り返して、折り返す途中に音楽を聴けて、なんならラッキーか、とも思えていて、また同じ駅を通り過ぎようとしたときに、そもそも目的の駅が通る路線に乗ってないことに気が付いた、ウケる

あ、ずっと紙袋持ってますよ、検便ね、検便

 

うっすら気づいてたんだけど、検便、検便っていうかウンチだよね、

それ持ってるとさ、なんかあれだわ、強くなれる

つよくなれていたんだわ、気持ちが

 

 

今日は夏がどう、とかじゃなくて、単に、

それ以上は言わないけど、無粋だから

 

それで、検便を提出し終えて、帰路、寝る

ウーピーゴールドバーグのカタカナの数

iya,

hontouni

hokanohito tte betsunohitono koto klyoumi nainnkai

 

いや、

本当に

ほかの人って別の人のこと興味ないんですね…

 

つくづく思うんですけれども

 

つい最近、奥村隆の『他者といる技法』を読んだんですけども、

いや、ネタバレしてしまってもよいでしょうか?

 

本のネタバレは許せますね~

ネタバレっていうか感想が許せないということにシフトしつつありますが、ね

映画とかね

映画ね~、家で見れませんよねぇ家って面白いからなぁ、映画以外も

 

歯磨きしすぎる癖のある人、おもしろい

実家にいる頃、正確には、私も次男の方の兄も実家にいるころ、彼は15分くらい、いや、なんか30分くらい、スマステーションが始まって終わるくらいにゃ、歯磨きしぐるっていて、おもしろいとおもっていた、

スマステーション、好きだったなあ、香取慎吾ってすっごい無表情、でもなんかホットドッグとかアメリカンドッグとか、好きそう

でも?なの?無表情であることとその2つが好きなことって対立してますか?

 

歯磨きをしているともごもごして喋れないのが人間のデフォルトだと思っていましたが、そうでもなさそう

兄はちなみにずっともごもごしていた、ウケる

 

おとなには、なってないんですけど、それなりの年齢になってみると、

便宜上、それをおとなと表記することにして、

ある程度の社会性を身に着けてしまうと、うわべだけの会話で済ませるということがだんだんとできる、できてしまって、

いや、できない、というか、しない、という選択肢も当然あるんでしょうけれども、それはそれでエネルギーが必要で、いや、かといって、別に切り替えられるかどうかも知らないのにもかかわらず、どうしてか、そうすることができなかった、と自分でそれを判断できるように答えてしまいがち、である

それでいてなお、そういううわべだけの会話をしている、相手に、つまり話している自分に対してまぁ、そんなに、興味ないワナってのは、あの、わかる、わからんか?ウーム

 

㌔とか㍍とか、全カタカナにこういう小さい文字があったら、いいよね

 

えーと、興味ないよね、みんなもう別にサ

興味、ないよねぇ…

 

興味なのかなぁ~

爆裂におもしろくないだけなのか?いや、おもしろいということを前提としてなにかを始めることってできない?会話って

いや、いんや、単に本当に相手に興味が、いや、?

なに!?

教えてくれよ!ジンメル大先生~~~

俺に社交がなんたるか!

橋と扉を!!!

 

海に向かってごちゃごちゃ言ってるMEGWINと、5年ぶりに会う人に対してごちゃごちゃ言っている俺がいて、それを聞いているあなたに届かないような声がそこにあって、そもそも声になってないものもそこにぁあるようね

 

もう埋められそうにない溝が長い間にできつつあって、それに橋を架けるなんてこったァさ、ゼネコン~スーゼネ~

 

 

あえーーーっと、柴崎友香『あらゆることは今起こる』はそりゃもうとっても良くてだな~、

なんだかんだで、読んでいる本を勝手につなげてしまうようなことも、当然、私にゃできてしまうのであって、

それでいくなら読み終えた時系列は逆だけれども

『他者といる技法』も『あらゆることは今起こる』でも結局のところ、言っていたこと、というかそれなりに私に今、共通項っちゅうのか、貫いているものとして残っている(ように感じる)ものは、

 

(ここで20分歯磨きを続けていたが、限界を迎える)

(歯がつるつるで、おもしろい)

 

ウーム、えーと、ほかのひとが自分とぁ確かに違うというそういうことなんですけども、

それは当然?かしらんが、私が理解、できる範疇に他者がいない、という、そういう結論にもなるわけであって、そうだとしたら、なんか、簡単にあきらめること、もできちゃうような、、その根底には興味のなさがあるんでは・っていうか、各々が別個の存在であることはそりゃ前提なんですけど、それを根拠として、一緒にいるというのは、なんだか単に寂しいようなそういう風に思えてしまうような?

いや、少なくとも自分がそういう風に、そういう風というのは他者に対して自分を開くことのできない状態であるというのに、とも思わなくもないわけですが、その辺がむずかしい

 

そりゃーまぁ、喋るのがさ、大事というのはそれなりにわかりますよ、わかりますけども、興味ねぇ…興味が要るよねぇ、どうしたもんか

わからない他者に対して、わかりたい気持ちの、根本にそもそも興味が必要なのであって、

興味ある!よ!!
と思っちゃいるが、それだけでたんたんと話が進むというわけでもない

 

こらまた最近になってようやっとわかったようなことだけど、

そんなに一人の人間というのが統一たるものじゃないっていうのか、

別に確固たる信念がなにかあって、それを基として動いていたり、喋ってたりする、というのでないワナという、

当然ながら、あなたのことを私が完全に理解できることは、なくって、それでいて私がわたしを理解できるというのでもないのはその通りで、あって、そうだとするなら、というわけでもないが、

ごちゃごちゃあるのが、むしろ通常運行なのだとするなら、というか、なにかの決断に対して、そら理由はなんかしらあると思いますが、それだけ!ってパターン、ないのでは?

あっても、その裏には、とかダルいこと言うつもりはないこたないんですけど、いや、まぁここまで来たら察してください

 

法人もまぁマァそういうことは往々にあって、というか、むしろ、会社というものがそれなりに組織、一人一人があつまってできるものととらえるなら、ごちゃごちゃがごちゃごちゃを呼び、まったきもって一つの行動に対して、そこにある思いがなんたるかを一本の筋道だったものや、論理が立ったものとして、理解というのは解説としてはわかるものでも、別にいかようにも見ることできますし、

そうだとするなら、まぁ、どういうものごとも話半分にというか、そういう見方もあるような、としか思えん

 

『あらゆることは今起こる』の表紙の写真、何度見ても何の写真なのかわからなかった

が、エスカレータっぽい

 

ネミ

ヘッドホンに気をつかいながら生活している

マウスの調子がすこぶる悪い。

マァもうかれこれ6年とか使っている気がする、ので別にもう、寿命、というべきか、そういう感じなのでいいんですけど、

ダブルクリックがクリック一回分にしか機能しないので、なんか変な気持ち

↑もっと尽くせよ!ことばを!伝えようと努力しろ!

野良の赤ペン先生がいる日常

 

実は同じことを何度も言ってよくて、最近ビデオカメラを買ってちょこちょこ撮ってぐるぐる見返していると、アチキは結構な頻度で同じことを繰り返し、それも全くおんなじ文言で繰り返していることが、多々ある

アチキって一人称はきっとモンゴルナイフからきている

 

確かに一回でなにかを聞くのはむずかしい、いや、たぶん、そんなこともないと思うんだけど、たくさん喋りたい、し、なんか言いたい気持ちが先走るとそんな感じの早口を繰り返すことになるっちゅう話なのでないのか

 

お菓子はそれ単体でおなかがいっぱいになることはなくて、その前後で飲む水分でおなかを膨らませている

 

同じことを誰かが過去に言っていたとして、それを自分がのちに言ったら、そこになにかしら関係は生まれるのだろうか

過去の文言が自分の目に触れていたがどうかは、そうした事を考えるうえでの場合分けの条件になりうるのだろうか

少なくとも自分は、というかほかの人が何を話すかを僕が操ることはできないので、少なくとも、とは言わなくてもいいんだけれども、

自分はそのへん、かなり誠実に生きていきたいと思っている節があり、

オリジナル、マァさ、オリジナルってのがなんなのか、ってのは一旦置いておいて、

オリジナルと、意図するも意図しないも含むパクリというものの境界を自分の中でははっきりとしておきたい、ので、ソースが明確にわかるのであれば、それを示したうえで話すことを心掛けてはいるが、それもまぁ曖昧っていうか、自分の話していることがどこまで、

たとえば、こうやって書いている私の、今の書き方とか話し方、とか、場合分けのアイデアとか方法論とかいうのが、パクリではないのか?って言われたら、どうにも考え込むしかないと、思うんですけども

 

いや、さんざんものごとを忘れ狂う人間がそんなこと不可能だろうと、思うと思うかもしれないんですけど、

いや、誰も読んでないかもしれませんけど…

別に読んでなくてもいいんですけど!

 

あんまりそのへんが定かじゃないっていうか、そのへんってのはさっきの自分のオリジナル性とかどこらへんからがパクリなのか、とかそもそもパクリの何がいけないっていうか、区別の必要があるのかどうかみたいなところ、のことで、実はそこにはものすごい個人差っていうか感覚の差があるような気がしていて、

 

MONO NO AWAREの忘れるを聞きながら橋を渡っていたら、ありのままでいたいけど、そもそもありのままがなんなのかわからないって、言っていて

スゴーいと思った、スゴーいってのは、わかるなーとほぼ同義で、

その時僕は中学生二人とすれ違っていたけど、そこそこ笑ってたと思うすげーって思ってたからな

 

歌詞が聞こえる最近の生活はそこそこ新鮮と言えば新鮮で、

まぁ調子がよかないとそもそも音楽を聴こうとも思わんのでが、

でがってたまに言いたくなるし、言ってるつもりなんだけど、誰にもなにそれとか言われたことがない、もしかすると単に変なだけで、そんなことも言わせないくらい、ただ変なだけなのかもしれない

 

というか、他人はそこまで自分にも興味がないんだろうなと思う

自分はひたすらに他人に興味がないからな~って言い続けてきたけど、それはマジ、だし、でも別にみんなも声高らかに言ってないだけで、興味はそんなにないんだとおもっています

 

昨日は高校の友達と木更津(づ≠ず→助手席でカーナビを「きさらず」で入力していて、まったく出てこず、後部座席の、5人乗りMAZDA≠MATSUDA2、旧デミオの、パンパンに詰まった後部座席の左右真ん中からツッコミを受け、ッケって思いながら入力し直した、助手席って、誰が助手やねんと思っているところも、ある、みんな主人公なんだが?、前の座席は広くて涼しい)のアウトレットに行って、

訳アリ商品ということばが生まれて、アウトレットに置き換わったな~と思いながら日陰を歩いて、

犬がたくさんいたので、犬種を言い当て合いながら、いや、勝手に一人で言っているのを横から友達が訂正してくれたり、正解だと言ってくれたりしていて、そうしたら、

そうしたらなんだよ、忘れてしまった

嘘”!

忘れるもなにも、何を書くか決めていたわけでもないのであって、その場合の忘れたってのはやっぱりただの言い訳でしかない

 

いろいろが安くなったり、食べ物は別に高かったり、チーバくんの団扇をもらってはしゃいだり、暑いと言っていたりしたら、まぁまぁ時間が過ぎて、

 

その間にティファールに友達と入っていったら、饒舌のパーママダムに説きほだされて?そんなことばありますか?心配になって調べたら、ほだされて、はあるらしい

それで、クレジットカードを作ったら会計がチャラになるくらい商品券やらポイントがつきますよって言われて、ほだされ狂い、いや、私と友達二人に対してクレカの人とパーマダムの二人体制、2VS.2の構図だったのを、俺がふざけて後者の側に付くことによって1VS.3にすることによって、クレカをつくることになった

 

そんで暑い外で椅子に座って長机に向かって友達がケータイをぽこぽこ打ってて、もろもろの情報を入力しながら雑談していたら、別に普通の会話を心掛けてはいたんだけど、まぁテンションも上がっていますし、楽しかったから、目の前のクレカの人も楽しく思うようなことを言いたいとずっとうっすら思いながら、ふざけて喋っていたら、そこそこ笑ってくれていたので、よしよしと思っていたんだけど、

後でその友達に聞いたらば、完全に私がウザいジジイの絡みをしていたということになっていて、めちゃ苦笑いだったよ、クレカの人、ってそうやって言うんです…!

せつない

そんなぁ~

 

って思いますけど、まだジジイじゃないしな、ジジイでもおもしろかったらいいじゃんって思って、どうしたらそういう風にならないかを考えていたら、俺はやっぱりひたすらにおもしろくあり続けないといけないと思っていたんだけど、

でも、彼の中ではどうやらそうではなくて、シャカシャカ入力して、さっさか登録するのがよさそうな雰囲気を感じたけど、どうせなら楽しくありてーって思うんだけど、ほんとは誰もたのしくなかったのかな

少なくとも僕は楽しかったけども、だからそれで良いじゃんとは到底言えなくて、ひとまずはその場にいるみんながそれなりにたのしいことが一番だとおもう

いや、一番はその場がたのしすぎて契約終わりにみんなでアウトレットを散策することだけど、ハーマンミラーとかさ。40パーオフで13万する椅子

にぎわったアウトレットの中庭みたいなスペースにある期間限定のショップに、微妙な笑みを浮かべた髪の長い店員さんと冷やかしに来た私たち二人だけの店内で座った13万の椅子

 

つーか、クレカにはどうしてキラカードがないのか

ゴールドとか質量のあるブラックとか、いらんのでキラッキラしたスリーブ付きのSSRクレカを作っておくれよ

でも、スリーブに入れておくのは別にありだなぁ~クレカ

 

よかったね~でも、アシックスのかっちょいいスニーカー買えて

ぼくじゃなくてそのともだちが

書いたらそのまま出す!

七夕の次の日、

ずっとなにかを忘れている気がしている

 

すこぶる元気なわけですが、なぜならブログを書くことができているので

あとはすっごい量のメモを書き残していて、気づけばGoogle Keepも4枚目のメモに突入している

1つ1万字まで書けるらしい

 

あといろんなものを読むのが楽しい、ツイッターとか含めて本も

 

今日はバイトをしていて、新聞を切ったり貼ったりするだけ、あとなんかなに?ごはんとか食べてるときにも時給が発生している

ほんとかは知らない、なんか周りには20歳くらい上の人しかいないし

 

みんな石丸がなんであんなに躍進しているのかわからないって言っていた

僕は蓮舫に入れたけど

でも、そのあとにその20歳以上も上の人が、その躍進、躍進?もっと中立っぽい言葉はありませんか?の状況を見て、もう自分の感覚がどんどん時代遅れになっていってる気がしますってそれまた上司の人に言っていて、オ~~スゲ~~っておもった

 

11時に始業の予定のそのバイト、なんか研修のときに、30分以内の遅刻は遅刻にならないって聞いていて、?

最初の2年位は律儀に11時に間に合うように行っていたんだけど、なんかバイトを統括している人が、それまた上司の人との会話の中で、バイトは11時半から云々カンヌンみたいなことを言っていて、あぁなんにも確認していなかったけど、実は11時半が本当の始業時刻で、そういう意味で30分は遅刻じゃない、つまり給料に入ってないんだということを勝手に知った気でいて、

それを聞いてしまった先月くらいからは11時15分くらいに着くように行っていて、行っていて、というかいや、行っているんだけど、空いている電車が10分に一本来るからそれを狙って歩いていると、そういう感じになる

 

そんな感じでぼやぼやしたまま。今日はついに11時半に行って、行ったら行ったで別になにも変わらないんだけど

その統括の人にふとあれ、バイトって11時半からなんですよね?って聞いてみたら、うん、そうだよ、そのはず、あれ?契約書見てない?って聞かれて、見てませんねへへって笑って、

ああ、そうだよねやっぱり11時半からなんだって思って、結構スゴイ時間を無償で働いていたんだなって思っていて、ああ、でもだからご飯食べてるときも時給が出てるんだって勝手に納得していて、

そしたらその間にパソコン、レッツノートをカチャカチャして、PDFを出してくれて、そしたらもっかいあれ?って言って、そしたら「11:00~」って書いてて、11時からだったわハハって言ってて、スゲ~~~って思った

 

今、登場人物はわたしとバイトの統括してくれている時代遅れになりかけている自覚のある人、2人しか出てきていません

 

それで、なんか新聞読んだりしていて、頭上で大人の人たちが会話をしていたりして、たぶんそのときなんか俺は変な顔をしていると思う、別になんか笑えるし、話の内容

 

あと、結構前からマスクを外してその場にいて、そうするとなんか気軽に話すことができる気がする、そういう気付きがあった

 

 

ほんで、映画にでも見に行くか、と、映画館が近いので

東京~

トイレで折りたたみのスマホを開いてポチポチ、ほんとうは鳴ってませんけど、そういう気持ちでケータイイジってて、でも、なんかトイレって電波届かないから、

トイレって電波届かなくないですか!?大学とかでもそうなんだけど!!??

フツーに圏外のときとかある!!

 

で、今度はフツウに自分の席で携帯を見ていて、映画の席を予約して、月曜日auマンデーだから、安い

 

それで、映画をみた、ホールドオーバーズ

ここから映画の話します

 

の前に、わたし、ずっとネタバレが嫌いってか避けたいなと思って生きてきたんだけど

それで今日も特になにも調べずにというか、マジで何も見ずに予約したんだけど

 

いや、ネタバレがってか、他人の感想に左右されたくないんだわマジで

別に感想とかレビューを先に見たあとに作品見て自分なりにそれに対して向き合えるなら良いんですけど、わたしそれ絶対ムリ!

マジでその感想念頭にしかない、そればっかある!

予告編も編集入っちゃってっから!それ他人の編集な~

 

いや、それで、それで言うと、あらすじ的なことを言うのは比較的アリなのでは…?と思えてきてもいて、

あぁこれは別にわたしと喋る人がこの発言を受けて配慮してほしいとかそういうものではなくって、単なる気付きを文章として残しているのですが、

いや~?でもそれをわざわざブログとして読める形にする、というのはそういうことなのではないのですか?

知らん

 

かつてのどっかのFilmarksにもおんなじようなことを書いていて、めっちゃ他の人のレビューに左右されちゃってるわ~って書いてた

Filmarksに書き残すのはいいけど、マジでどの作品になにを書いたか覚えていない

新宿に住んでいたときに、家になぜか生ハムの原木があって、映画を見ながらそれが邪魔でしかなくて、人生で初めて肉類を恨んだって書いたの、マジでどこか覚えてない

 

映画を見る前に時間があったから、バイト先と映画館の中間地点にあるおっきな図書館に行った

うちわ配ってて、うちわ!と思ってもらってきた、うちわもっと配ってくれうちわ

なんかでも公共空間ってうちわ仰いじゃいけない、みたいなのありますか?

高校?いや中学?の時にうちわで仰いでた友達が先生に怒られてる姿が脳裏に浮かんで、ちょっとヒヤヒヤした、涼しそうなのにあんまり涼しくはなかった

仰ぐって漢字、あってますか?

 

つい最近、ことばってもっときちんと使う必要あるのでは?と思ってきはじめた

いや、じゃあもっと丁寧に書けよと思われても別にあなたに向けては書いてない

俺が俺のために書いていて、特に読んでほしいと思ってる人もいない

 

ことばを適切に使う必要があるのは、つくづく我々がことばと不可分で、ことばの中を生きてる実感がようやっと湧いてきたからなんだと思うけど

 

それで、いや、ことばを大切に、みたいなの割とありふれてるし、本とか読んでてもちょこちょこ見る気しますけど

そんでもなんでも、

これまたつくづく、実感というか自分の感覚でいて、そのことを感じていないと、誰かに言われたり、本に書いてあっても、全く響かないし、覚えていない

 

むしろこの世にあふれる本の中のことばに、好き勝手に思ったり忘れたりしている自分に沿うようなことばを目ざとく見つけているようにも思えていて、

そうだとするなら、本に書いてあるから、というそれが理由で素晴らしいとかどうとか全く決まらないのでは?って思う

それはどうやらショーペンハウアーが『読書について』で書いてるよって兄が言ってた

 

いや、そらそうなんだけど、そらそうってのは本に書いてあるから素晴らしいというふうな回路は明確に思われているわけではないんだけど、ほんのちょっと不安になったりとかすると、本とか他人のことばに自分を置き換えてしまったりとか、あるじゃん、ない?そっか~ないか~

本に書いてある記述とか文章にそもそもの根拠を置くのは違うんでは?

すべては結局、自分の手の中にあって、そこから出発しないとどうにもならんな?というそういう感覚

 

 

そのおっきい図書館で哲学対話?かなんかの特集が組まれていて、机の上にいくつか本が置かれていた

創元社のデッカめハードカバーの哲学テクニックうんたらかんたらみたいな本も置いてて、読んでた

その場で読んでたら司書の人が隣に来て、面陳されてる本を片付け始めていて、もうなんか机とか回収する用に台車とかも隣に駐車して、

スッて本を戻したら、司書の人がもっかい掴んで、両手で「いや、読んでください」って言われたから、ありがとうございます、って言って、ソファに座って読んだ

スッキリしてて読みやすかったしわかりやすかったです

 

映画の話させてください

いや、めちゃくちゃ良いじゃん…

家族のはなし、大好きなんですわあたし、いや、てか疑似家族も含む家族なのですが、

具体的にゃ転々とかリトル・ミス・サンシャインとか、大好きなんですけど

もう、そういう話になるじゃんってわかった瞬間、めちゃくちゃ笑顔になっちゃったもんね、スゴイよ、たぶん、スクリーン側からみたら歯だけ光ってたんじゃないかな結構白いし、オレの歯

 

いや~、全然年間ベストなんですけど!

そんなに映画見てませんけどね

いやちょっとやめられませんね~これだから映画鑑賞は~

って、こうやって書こうっていうのだけ思いつきましたけど、別に書かなくていいよね

 

あげたらキリないなって思ってますけど、いや、そんなことはなくて、こういうふうに書いたらうまいこと感想書かなくて済むな~逃げれるな~って心のどっかで思っているのが、文章に出力されただけです

 

それぞれ孤独を抱えていて、それでもなんとか生きていくっていう、それもう人生じゃん…

なんとか、の部分に他者との関係性があって、それはたぶん生きていくうえで確かに欠かせないものの1つであって、

それが別に家族でなくとも関係は築くことができて、そこにこそ愛があると、そういうふうに僕は考えています

 

でも、なんか、映画の中でも考えてたけど、孤独であることを基底として個人個人がつながっているふうには見えなくて、それって別に必須じゃないよな~って思います

もちろん映画の演出というか、それを映すのはギャップとしての作用というか、それがあることを前提とすることで、観客としてのわたしは感動するんだけど

それは実はすごい大切なことで、別に誰が孤独であるかは正直なところ外からははかれないし、なんなら全く同じ状況である人が2人いてもその感じ方はぜんぜん違うことってあると思いますし、それでいてもなおわたしたちは繋がれるというか、孤独であることがわかって、だからこそ繋がり合うのでなくて、

つまりはそういう個人の属性とかを見て、関係性とかその人への思いとかが変化する、というのではなくて、まっすぐにその人を見て、その人と繋がりたいからつながるっていうのか、なんというかそういう部分なんだと思うんですけどね、

 

それで帰ってる途中に電車でぽこぽこスマホ触ってて、映画のこと調べて、Filmarksの監督のページに飛んだら、すでに見てる映画が2つあって、

ネブラスカサイドウェイで、だからか~って思いました

サイコーなんだものどっちの映画も

 

主演の俳優のページに飛んだら

WIN WINってこれまたサイコーの映画の主演で、いや、もう、見るべくして見てんじゃん俺…っておもた

 

 

あとは、知らないことは別に恥じることじゃないですよね~

これは映画、特に関係ありません